お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2012年4月7日土曜日

アメリカ南部でアメリカ文学を教えるということ (2)

そんなわけで教師として振る舞うということに関してはさほど意識的にならずに済む環境がすでになぜか最初のクラスでは整いすぎるほどに整っていたのだけれど、それでもちろん話は終わりではない。

Louisianaに留学することを初めに奨学金を出してくれるひとびとに告げた時、Deep Southに行く心の準備はあるのですか、と問われたことを、一年目はよく思い出して、あれは西海岸や東海岸の都市部に居住した経験のあるひとたちが、南部を時代に取り残された他者として思い描いていたにすぎないのかもしれないな、と思っていた。けれど大学街に住み人文系の大学院にいるということは、当然にリベラルな思想の人々に囲まれるということなわけで、深南部に生活してそこここに南部の文化を目にしても、それはまだ南部の一部しか見ていない事だったのだ、と気づいたのも、ティーチングを始めてからのことだった。

もちろん21世紀も10年あまりを過ぎた今日、深南部とはいえおおっぴらに人種差別が横行しているわけではない。学生達は当然に中学高校と、痛いほどにpolitically correctであることとはなにかを学んできている。けれどもあの、南部の政治的文化的保守性という、教科書的な言葉が衝撃をともなって実感される瞬間というのはまぎれもなくあって、そういう時にはブンガクを教える意味、という、いかにも大時代的なテーマが頭をよぎる。それはたとえばNella LarsenのQuicksandという作品を教えた時に、生徒が無邪気に、でもこの主人公の黒人の女の子は、どこのコミュニティにいっても文句を言うばかりで共感できないです、最初に牧師がこの女の子に言ったとおりに、自分が黒人の血を引く存在であることを素直に受け容れて、黒人共同体にいることに満足をすればよかったのに、と言う時であり、たとえば生徒達が口を揃えて、個人の努力と考え方次第で人生というのはなんとかなるのだから、人生に満足できないのは、その個人の責任だと思う、という時である。

なんども、もうなんども書いてきたことではあるけれど、日本にいる時には無自覚にpolitically correctであること、人種的階級的弱者の口を借りて彼らの権利を声高に語ることに対する嫌悪感を覚えていたし、政治で文学が読めるのか、といらだつことも多かった。けれど、こちらに来て文字通り痛感したのは、そうやってある種の文学の政治性をないがしろにできるのは、多くの場合、自分があらゆる特権を知らぬ間にまとってきていたからだったのだと思う。個人の意識で人生がすべてうまくいくのならば、公民権運動もgay marriageの権利獲得運動も、必要はない。けれどそうではないから、個人というのは社会や国家にどんな形であれ包摂された存在であるからこそ、権利獲得のために集団的な運動が必要になる時というのは必ずある。けれどEmersonの個人主義を高らかに歌い上げるエッセイを読んで、これこそがわたしのルーツだと思った、と、そのエッセイが究極的な個人主義の国家にあってコミュニティとはなにかという問題を投げかけていることには気づかずに輝くような笑顔で言う生徒たちを目の前にすると、一瞬、水風船でも顔に投げつけられたかのように、衝撃をうけ、そしてひるみ、この州が極右のSantorumが圧勝する地であることを思い出す。

文学というのは、お金もうまないし、テクノロジーもうまないし、社会のなんの役にもたたないんじゃないの、というのは、文学に携わる人間が、誰に実際に言われるわけでもなくてもほとんどニューロティックに(程度の差はあるとしてもすくなくとも頭の片隅で人生に一度は)問う問題だと思うし、その問いにこうやって飛びついて、いや、文学を教えることにはこんなに意味があるんだ、と安易に答えを出すのには抵抗があるのだけれど、それでもいざ彼らを目の前に、自分がなにがしかのことを言うことができる立場にいることは、心からありがたいことだと思う。わかっているのは、この学生達はそれぞれに真摯に自分の人生を生きてきている、ということであり、人種的にも文化的にも圧倒的に他者であるわたしが、自分の他者性を振りかざして、あなたたち強者は弱者の痛みをわかっていない、と言う事は、どう考えても間違っているということだ。南部に生まれ育ち、その中には、ひいおじいちゃんが南軍で戦ったという子達もいて、自分の生まれ故郷が西海岸、東海岸のリベラルな(そしてマスメディア的には強者である)文化からbackwardな田舎として扱われていることもおそらくは肌身で知っている生徒達に、ただあなたたちは白人だから強いんだ、と舌のもつれる英語でかきくどくのは、どうにも卑怯なことだと思う。けれども、自分に教師という立場が与えられていて、自分がどうみても彼らとは違うバックグラウンドから来ていて、だからこそある種の興味をもってもらえる存在だからこそ、言っておかなければいけないことというのはきっとあるのだとも思う。わたしたちが今学期読んできた小説の主人公達はみんなどこか壊れていて、彼らの選択はどう考えても理解できないことが多々あります、だけど、けっきょく文学を読むっていうことの醍醐味のひとつは、理解できない人間を理解しようとする練習をすることだと思うのです、とはいっても結局は理解できない人ばっかりです、でも、理解ができないときに、この人たちは間違っていると一刀両断に切り捨てる時には、たいていの場合自分がなにか彼らにないなんらかの力を持っているときだと思っていいと思います、それがみなさんよりたった10年ばかりだけれども長く生きてわたしが学んだ事です。それがわたしが最初の学期の最後の授業に笑顔で言えたことであり、臆面もなく自分の道徳をそうして言葉にしたことは、教師一年目だからこその恥はかきすてだったにしても、とりあえずのところはよしとしている。

[Collard Greens with Bacon のレシピ]
久しぶりに書きながら脇汗をかいた恥ずかしいエントリーだったのだけれど、Louisianaという土地を上辺だけではなく、もう少し知る事ができる機会が得られた事はうれしかったので、久々にLouisiana風の料理のレシピを。カラードグリーンというのは左のような菜っ葉で、お店で見かけてもなんか固そうだなぁと(実際ほんとに固い)思って敬遠してきた野菜だったのだけれど、先日南部料理のお店でベーコンと煮たものを食べたらこれがとってもおいしかったので自分でも作ってみた。話はややずれるがKey and Peeleというこちらで人気の黒人のコメディアンのコンビがいるのだけど、彼らの冠番組でふたりの黒人ビジネスマンがHarlemのレストランでどちらが黒人らしいかを競うためにいろいろソウルフードを頼みまくり、ヒートアップしたあげくに最終的には「人足を揚げたものに豆の煮たのををかけてください」という、みたいな、まぁ文字に起こすとアメリカ人の笑いのつぼってなんだろうというようなコントがあり(実際にはビジネスマンである二人が自分が黒人性から離れていることに異様な罪悪感を感じている設定がけっこう効いていて笑った)、その中でももちろん初めに出てくるくらいカラードグリーンはソウルフードの代名詞みたいなものなわけだが、Louisiana風はやっぱりいつものごとくホットソースを効かせたのが特徴です。

☆collard greens ひとたば
☆ベーコン 三枚
☆玉ねぎ ひとつ
☆にんにく ひとかけ
☆お酢(いつものごとくわたしはすし酢なんですが)50cc
☆ブロス 500cc
☆ホットソース(タバスコ)10ふりくらい

①玉ねぎ、にんにくはみじんぎり。ベーコンは1cmくらい。カラードグリーンはまんなかの固い茎を切り取り、くるくると丸めて太めの千切りにする。
②フライパンでゆっくりとベーコンを熱する。脂を溶かすように。
③脂がしっかり出たら、にんにくと玉ねぎをいれて、これもゆっくり炒める。きっちり色づくまで。
④カラードグリーンを投入。最初はかなりかさがあるけれど、炒めているとしんなりしてくる。
⑤お酢を入れて、水分を軽く飛ばす。(みりんをすこしいれてもおいしい)
⑥ブロスを入れて、ふたをして1時間、ほぼ水分がなくなるまで。
⑦仕上げにタバスコをふって、よく混ぜる。ベーコンとブロスの塩気によるけれど、塩味がたりなければ塩こしょうで調味。


Great Gatsbyというのはあまりにもよく出来すぎていて、あまり好きな小説ではなかったのだけれど、教えるためにもう一度よんだらやっぱりよく出来すぎているよ、と思いつつ、最初のページのNickの父親の言葉に—そのアイロニーも含め—力強く線をひかざるを得なかった。"'Whenever you feel like criticizing someone,' he told me, 'just remember that all the people in this world haven't had the advantages you've had." 文学を教えるということは、こういう言葉に素朴にもういちど生徒と一緒に打たれることなのかもしれないな、などと思う。アメリカでアメリカ文学をアメリカ人に教えるというのは、間違いなくわたしの(いってみればお気楽な)人生の中で一番くらいにチャレンジングな経験であるわけだけれど、同時に一番くらいにやってみてよかった経験でもある。先学期の生徒たちからの評価アンケート、うれしくて泣きながら読みました。だからこの山積みのレポートも、なんだかんだ仲間と愚痴をいいながら、笑顔が隠しきれずにまた採点するのだと思う。