お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2010年9月9日木曜日

あたいの夏休み 1


このブログのタイトルは中島みゆきの名曲『あたいの夏休み』から来ている。なんでこんなはすっぱなタイトルをつけたかって、それはたまたま、ブログを始めてみたら、とHさんに言われたその日に、わたしにtubefireを教えてくれようとしていたWくんに「好きな曲言ってみて、YoutubeからiTunesにとりこめるよ」と言われて反射的に答えたのが「あたいの夏休み」だったから、という理由だったのだった。

こっちの英文科の友人が、今年の夏休みはコロラドに行ってきたんだ、と言う。なんだかんだでけっこう高くついたけど、その価値はあったよ、と。もちろん山登りが好きというのもあるんだけど、これまでの人間関係もなにもないところで好きなだけ本が読めて勉強に集中できたしね。夏休みってそういうものだよね。と、言われてわたしは、自分にとってほんとにここでの生活が「夏休み」であることに気がついた。

なんだかわからないのだけど、ここに来てこのかた、やけに気持ちがリラックスしている。このわたしが、である。もちろん授業はほんとに大変。3コマとっているのだけれど、各授業で毎週1冊くらい本を読んでそれに対してresponse paperという感想文みたいなのを書かなきゃいけないし、ディスカッションは矢継ぎ早に発言が飛び交って、しかも学生の発言はコンテクストが掴めないからよくわからないこともままある。ただでさえ与えられたテクストが難しいのに、(Jamesonとか、ほんとに授業前はわけわかんなかった、正直)ディスカッションだって60から70%くらいしかわかってないんじゃないかな、と思う。もちろん発言なんてできない。授業自体はもの凄く充実感があるので楽しんでいるけれど、それでもディスカッションの最中に教授と目が合ったりするとアルカイック・スマイルでごまかすしかなく、最初の週は手足をもがれたような気がした。

が、いったん自分が「できない」ということを受け容れると、不思議なことに焦りや不安というのは退くもので、ある種の防衛機制なのかもしれないが、この無力さというかvulnerabilityのようなものを一種、楽しむことができるようになる。言語というのは人間の人格の礎であるので(というかなんちゃってラカニアンなわたしは人間というのは言語でしかないとさえ信じている)、母語を剥奪されて外国語の中に置かれると、ほとんど生まれたての赤子状態である。この赤子状態というのがやけに気持ちがいい。こっちに来てからなんでわたしはこんなに素直になったのかしら、と思っていたのだけれど、それはアメリカのせいだけではなくて、この5歳児的状況のせいでもあるのかもしれない。乾いた土みたいなもんで、言語のシャワーが気持ちがいい。いや、辛いときもあるのだけど、もちろん。

日本にいたときは、だいたいのことはある種の日本語の巧みさみたいなもので自分を守る壁が作れていたし、それはそれでよいことだったとも思う。人間関係の微妙な距離感みたいなものを言語で調節することも(得意ではなかったけれども)ある程度はできていたし、近寄りたくないものには近寄らないでいることもできた。が、今は自分を守ってくれる言語の壁がないので、常にいろんなものが好き勝手にわたしの中に出入りしてくる。言葉の微妙なニュアンスが出せないので、わたしの英語の世界は画素の粗い写真のようなものなのだが(ああそうだ、わたしはメガネを外すと世界がぼやけてリラックスするのだけど、それに似てるかもしれない)、ただ同時に自分の好意(大げさにいえば新しい世界に対するそれ)を知ってほしい、というような欲望(これは基本的には日本にいた時からあるものだと思うのだけど)もあるので、とにかくとりあえず一度受け容れてしまう。そうするとそれが案外楽しかったり楽だったりするのだ。

と、あんまりこんな風に多幸感に浸っているように書くと手ひどいしっぺ返しが来るのでは、と恐れるところがわたしなのだが、とりあえずわたしのここひと月のリラックス感についての考察は続く。たぶんまたいつか。