お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2011年2月10日木曜日

Epistemology of the Closet

いちおう、前回の続きで、セクシュアリティの授業の話である。

Eve SedgwickのEpistemology of the Closet (『クローゼットの認識論』)、実は大学に入った時に目を通した覚えがあるのだが、Judith ButlerのGender Trouble同様(実際この2冊の刊行年は同じ90年で、邦訳も両者ともに99年)、ガチガチの構築主義で直感にあまりにも反するというか、なんかなぁ、という感じでほっておいたのであった。本質主義と構築主義というのは、誤解を恐れずひらたく言えば本質主義が「社会的なものは自然なもの(=本質)を反映している」という立場をとり、ある概念、カテゴリーに対しそれに固有な普遍的特徴を与える一方、構築主義は「自然とされているものは社会的に自然に見えるように構築されているにすぎない」という立場をとる、というようにとりあえず説明される。たとえばButlerのGender Troubleは、これも恐ろしく雑駁にいえば「自然な二項対立」の最たるものとされる「男と女」という生物学的カテゴリーでさえ、gender同様、社会的に構築された恣意的な区分だとに主張するわけである。Butlerのこの主張自体についてはもう少し考える必要があるが、とりあえず言えるのは、まぁ読んだ当初の感想は当たり前といえば当たり前で、Butler的に言えば「直感に反する」の「直感」が社会的構築物なんだからそんなの当然だ、当然にバイアスがかかっているのだ、ということになるし、それは正しいような気がする。

で、今回セクシュアリティの授業(授業タイトルはEtiology of Sexualityという)で改めてSedgwick を読んだわけだが、Sedgwickの場合、標的となる「自然な二項対立」はhomosexual/ heterosexualである。Sexual object choice (ある主体が性欲望の対象とする性)によってセクシュアリティをばっさりと二分割し、あたかもそれ以外の区分軸が存在しないかのようにその分類を規範化することの恣意性をSedgwickは指摘し、この強引な二分化の下で(二分化が「自然」でないからこそ)いかにheterosexualityが自らをhomosexualityから切り離し、homosexualityをstigmatizeすることで自己規定を行ってきたかを示す。この二分化がはっきりなされたのは19世紀半ば(Foucaultによれば1870年代)であって、それまで同性間の性関係はあくまで「行為」にすぎなかったのが、これ以降同性間で性行為を行う者にはhomosexualというアイデンティティが与えられることになった、とするSedgwickは、近代において男性は常に自分のheterosexualityを証だてるよう迫られてきたのだと主張する(ちなみにHenry Jamesの傑作短編 "The Beast in the Jungle" を強制的異性愛の軸で分析した第四章はほんとに美しくて泣ける)。

初めて読んでから10年になるわけだが、そりゃ10年前に読んでなにがわかるでもないよな、と思うのは脳みそ的な成長もさることながら、やっぱりいい意味で年をとったということなのだと思う。よく言えば花盛りわるく言えば発情期の18の女子大生に強制的異性愛がどうこう言っても、だってアイラビュー恋をしようよイエィイエィなわけで、馬の耳になんとやらである。別にイデオロギーから自由になったなどというつもりは毛頭なく、強制的異性愛というターム自体いまやアカデミア的イデオロギーの産物のひとつであるわけなのだけど、Sedgwickを読んで、ついつい自分の来し方行く末に思いを馳せてしまいながらしみじみと思うのは、hetero/homo binary自体の恣意性もさることながら、romantic love ideologyというのは罪なものだよなぁということで、同性異性に関わらず恋人や伴侶がいないと人間失格みたいな風潮はほんとにどうにかならないもんか、と思うのだった(そしてかの教授の博論のテーマはcelibacy、つまりこれまで抑圧されたhomosexualityとされてきた独身生活/非性交的生活をひとつのsexualityとして捉えるというものなのだった)。

脱線になるが、同時にSedgwickみたいな理論家が出てくるのはやっぱりアメリカだからなのかなぁと思うのは、こっちにきて初めて男性にかかる異性愛プレッシャーの強さを肌で感じたからなのかもしれない。日本とアメリカという対照で面白いのは、genderとsexualityの縛りの強さの差だったりする。gender的に言えば日本のほうが縛りがきついというか、男は男の役割を女は女の役割をきちんと演じることが日常レベルでわりと常に要求されるのに対して、アメリカでは60年代以降そういうgender roleはどんどん失われており、例えば私たちくらいの世代(あるいはもう、その親の世代でもそうなんだけど)になると専業主婦は絶滅危惧種というか、「お母さんが料理(というか家事全般)をする」というコンセプトも廃れ、いやな言い方をすればママの味は冷凍ピザということも珍しくないし、そのかわり男性にかかる「大黒柱」としてのプレッシャーも比較的小さい。大学院生を見ていてもそれはけっこう明らかで、女の学生が結婚している場合、遠い地の大学院に通うことになったら旦那さんが一緒に引っ越してその地で仕事を探しながら家事をする、というような例も多く、少なくともわたしの学年の英文科の女子8人のうちなんとも3人がこのケースに当てはまる(もちろんアメリカの大学院が大学院生にTAのポジションを与えて月15万くらい稼げるシステムだから可能なのだけど)。

が、そのようにgenderに関してはある意味ユートピアみたいなアメリカ、惜しむらくはsexualityにおける規範の強さで、その点日本はsexualityに関してはありがたいことに縛りがゆるい。どういうことかというと、アメリカのsexualityというのはどうにもpenetration orientedというか、いわゆる普通の(こっちでいうと"vanilla"な)セックスの支配力が強大なのだが、その点は日本チャチャチャ、日本人のセックス観というのは比較的多くのvariationを許すのである。わたしの日本でのアメリカ人の友人が「日本人は全員変態だ」というのが至言を残したのだが(ちなみにこの友人、以前書いた「日本人には愛がない」を発した人で、この二つの発言はアメリカにおける「愛」と「性器中心的なセックス」の緊密な関係を示している)、いろんな意味で日本人はfetishisticであり、男女の性器結合そのものよりむしろその周縁(遥か果ての周縁にまで)にこそエロスを見いだすという風に彼は言っていたのだが、乱暴な一般化を恐れずにいえば、うん、それは全く正しい。で、アメリカ的genital orientedなセックスが何を生み出すかというと、男は常に固いイチモツにより自らの性の規範性を示さなければいけないというようなプレッシャーなわけで、だからこそバイアグラがこんなに流行るのだろう。Gay、lesbian、bisexualを初めtransexual、transgender、transvestiteその他もろもろいろいろなsexual minorityが力を持つアメリカは日本よりも性的に開放的であるというイメージが強いし(モザイクもないしね)、政治的に言えばまったくそのとおりで、日本のsexual minorityがアメリカより遥かに肩身の狭い思いをしているというのも事実ではある。が、アメリカの"sexual minority" が自らのsexualityを明確なidentityとして定義し、コミュニティを形成するのは、実はそうやってはっきり白黒つけることが求められるほどに強制的異性愛のプレッシャーが強いことの裏返しでもある。日本だともうちょっと「スタンダードなセックス」の幅が広いので、ある程度の性的偏向を持っていてもmajorityでいることができる…気がする。

いつものとおり話が脱線したまま長文になってきたのでこの辺でとりあえず終わるが、さて、sexualityがidentityの主要構成要素となり、sexual minorityが "sexual minority" としてのidentityを持つというのは、それによってある種の政治的社会的権利を獲得しうるという美点は間違いなくあるにしても、ある意味では自分がどのようなsexualityを有するかというのがことほどさように社会的に問題化されているということの証左でもあり(たとえば「牛より豚が好き」はidentityにはならないわけで)、べつに単なる好みなんだからいちいち宣言するほどのことじゃないじゃないですか、という緩さを社会が許さないということでもある気がする。べつに「カミングアウト」の意義を貶めるわけではないのだが、自らをgayであるとidentifyしそれを社会に対して表明することは、ある意味ではhetero/homo binaryによる社会構成を一度受け容れることであるわけだから、「カムアウトしない」という行為自体にもそれなりの政治的意義はあるのではないかな、などと思うわけだ。

そんなわけでわたしは自分のsexualityに関しては当分何者としてもカムアウトしません。牛より豚が好きだけど!でも牛も煮こめば美味しいし!というわけで、もう、なにがなんだかわかんないけどとりあえずアップ。