日本の大学で一緒だった友人(同時期に留学)から電話がある。英語で話すのに疲れた我々は久々の日本語での長電話を楽しむ。彼が言う。去勢の日々です、と。そうなのだ、言語というのは力でありphallusであるわけなので、言語的な不自由さというのは去勢状態に外ならない。が、なぜわたしの場合それが(比較的)frustrationにならないかといえば、わたしは去勢されて今どうやら自分のfemininityと折り合いがついてしまっているからのような気がする。涙のphallic womanを返上してアメリカで今堂々と女やってる自分てどうなんだろう、とフェミニストの自分が問う。これまでの何年間で最大の問題だったものが、言語的不自由によって(少なくとも表面上は)いかにも容易く解決している。なんということだ。でも大丈夫。4年後にはポークビッツのようなものが芽生えているはずだから。