お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」
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2011年4月22日金曜日

Don't Be a Drag, Just Be a Queen!?

Reality showというのにはたいして興味がなかったのだけど、こればかりは完全にドつぼにはまってしまった。

いつものごとくsexualityのクラスで和んでいたら、ゲイの友人がRuPaul's Drag Raceという番組について口角泡を飛ばしながら熱く語っている。Drag Raceはその名のとおりdrag queenたちが "America's next drag superstar"の座をかけて鎬を削る番組で、2009年にシーズン1が始まり、現在はシーズン3が放送中である。写真左が番組のホストを務めるRuPaulという全米一有名なdrag queenで、おそらく年齢は50歳をゆうに超えているのだが、顔はもちろん体中しわひとつない。右がシーズン3の12人のクイーン達で、現在はトップ3まで絞り込まれた。

我が家にはテレビがないのだが(テレビ自体はあるのだが、ケーブルを契約していないので3チャンネルくらいしか見られないのでクローゼットにしまってある。アメリカのテレビチャンネルはあほみたいに量があるのだが、その分けっこう値段もして、最低でも月50ドルくらいする。あとはチャンネルの量によって値段もあがっていく)、アメリカのすばらしいところはけっこう多くの番組がインターネットで見られることなのだった。もちろんHBO(Sex and the CityとかTrue Bloodとかの)なんかは全然見られないし、ネットで見られるのは超大手のABC系列(Desperate Housewivesはこのおかげでみられている)とかあとはDrag RaceをやっているLOGO(ちなみにこの局はLGBT-Lesbian Gay Bisexual Transgender-関係の番組に特化している)とかそういう小さな局に限られるのだけど、あとはNetflixというTSUTAYA DISCUSSみたいなサービスがものすごく充実していて、月8ドルでDVDが無制限に借りられる(とはいえもちろん一回に1枚しか送られてこないので借りられる数は8枚くらいかな)のみならず、streamingでものすごい量の映画及びテレビドラマを流しているので、ノンストップで過去のドラマをまとめて見ることができる。ちなみに先学期はなにかペーパーが終わるたびに自分へのご褒美にthe L Wordをまとめて1シーズンずつ一晩でみて、そんなこんなで6シーズン見終わった。

さて、Drag Raceなのだが、正直恥ずかしいことに番組を見るまでdrag queenとtransgenderの違いもいまひとつわかっていなかったのだが、drag queenというのは「女性になりたい」男性transgenderとは異なり、普段は自分の男性としての肉体を愛していて、ショーの時に限って女装をする(ゲイの)男性を指す。よっていろいろなqueenが番組中何度も「よく勘違いされるけど女装してセックスしたりしないし、dragはあくまで自分にとってのアートである」と言う。Season 2の最後、同窓会的な回があって、そこに集ったクイーンのひとりが泣きながら「みんなには理解してもらえないと思うけど、わたしは実は女の子で、メイクを落として自分の男の顔を見るたびに辛いので、transの手術を受けることにした」と告白するようなシーンもあった。

Dragはperformance artである、などというと口幅ったいように響くが、実際に番組を見ていると、ほんとにそうだよね、と納得してしまう。毎回いろんなお題が出されて、それに合せてクイーンたちは衣装を縫ったり(メイクのみならず裁縫技術の高さというのも優れたdrag queenの必須要素である)スキットを演じたり、時にはストレートの男性をqueenに変身させたりするのだが、まぁほんとにただただすごい。根幹にあるのは、やはりButlerが言うようにgenderというものの虚構性というか、それがパフォーマティブなものであることを示すという姿勢で、dragの目的はただ「リアルな女性」を演じることではない。方向性はいろいろあって、誇張に誇張を重ねた女性性(ラテックス製のメロン乳が最近dragでは流行っているみたいだが)を身にまとうクイーンもいれば、自分の肉体そのものを活かしてそこにオートクチュールのランウェイ並みに美しい衣装をまとってステージを闊歩するクイーンもいる。中でもわたしが愛してやまないのはRavenというクイーンで、動画のとおり女性性にまつわるカルマをいかんなく表現してくれる(しかもメイクをとると超いい男)。



Lady Gaga の "Born This Way" はLGBTの人々の権利のためにと作られた歌なのだけど、この歌、実は一部のLGBTにあまり人気がない。Lady Gaga自体はdrag queenのアイコンみたいな存在だし、歌自体も一見すると「神があなたをこう作ったのだから、人と違ってもいい。自分自身を愛しなさい」的なストレートなメッセージなので(それ自体ちょっと問題含みで、LGBTアイデンティティが遺伝子的に決定されたcongenitalなものであるか後天的に構築されるものであるかという長年のqueer studiesの議論と抵触するようだけど)、なんでかなぁと思ってたのだけど、Drag Raceを見てようやく納得がいった。"Don'be a drag, just be a queen" という曲中のリフレイン、善意のものであるにしても、やはりちょっと違和感が否めない。Dragはgenderfu*kerたちのアートなのであって、女になりたくてなれなかった人々のものではないのだ。

さて、そんなわけで来週はいよいよSeason 3のフィナーレである。その翌日にペーパーの締め切りがあるんだけど…誘惑に抗する自信は皆無。今回はAsian queenが2人ともうひとりはLatino、3人とも甲乙つけがたいので、楽しみだ。YouTube見てたらSeason 2のトップ3のクリップがあったのでこれも乗っけてしまおう(ちなみにRavenは残念ながらTyraに負けてしまった)。Don'be jealous of my boogie!



追記:
やったやったーRajaが選ばれた!

追記2:
やっぱりOngina…




2010年11月27日土曜日

Twitterにおける自意識の変容

アメリカに来てからこのかた、ほんとにみんなfacebookを鬼のように使っているので、これまで文学的自意識によって遠のいていたsocial network系のサイトに触れる機会が多少増えたのだが、ひょんなことから昔付き合っていた人のtwitterアカウントに遭遇し、そのあまりの自意識の丸投げっぷりにしばし近代的自我の混乱をきたした。

facebookアカウント(facebookは基本的に本名でやる)にリンクが貼ってあるということは匿名性の保証がすでにないということだと思うのだけど、にもかかわらず、え、そんなこといっちゃう?え、まじで?みたいなこと(わたしとの過去の関係も含め)を一日5回くらいの頻度でtweetしているではないか。twitterというのはstream of consciousnessを通り越してautomatic writing、というか自己検閲の彼岸なのか。で、いやいやこの人だけに違いない、人間そんなに自意識から簡単に逃れられるもんじゃないよ、と思って念のため有名人のtwitterを確認したらやはり自己検閲の敷居の低さはある程度共有されるものだった。ようするに、他人に見られる存在としての自己の公共性みたいなもの(芸能人てとりあえずそのembodimentだと思うのだけど)、およびその抑圧が限りなくゼロに近づいているようなのだ、twitterという空間では。てゆうかそれが眼目なのか。ある種のvulnerabilityを通した、絶え間ない自己検閲からの自由というのが。

こんなことブログが出来たころから言われてることなのかもしれないけど(と、わたしなんてネット的にsocially awkwardでsocial network siteもブログも処女みたいなもんだからいちいちこうやって自己検閲してしまうのだけど)、ネット空間における自意識の変容というのは凄まじいものがある。昔は「ヴァーチャル/匿名だから言えること」だったのかもしれないが、ネット空間におけるvirtualityというものが言説として確立されたいま、ネット空間上でした言動をactualな世界におけるその人と繋げるのは粋じゃないことみたいに見なされているわけなの?だからみんなあんなに自由なの?恥ずかしいと思うほうが恥ずかしい、みたいなこと?しかしもちろんわたしもこのブログを始めたことによってだいぶ自意識の閾を下げつつあるので、twitterを始めるのも時間の問題かもしれない。ええ、うそ、やだ、そんなこと…やっぱできないよ、とネット処女としては頬を染めるのであった。

2010年11月19日金曜日

transformed into abstraction

唐突にこんなことを言うのもなんなのだが、アメリカに来てから見ず知らずの男性に声をかけられる事が増えた。信号待ち、喫茶店、ガソリンスタンド、プール等々トレンディドラマかどっきりかと思うようなシチュエーションで声をかけられるので、最初の頃はそれなりにうぶうぶしくドキドキもしていたものだが、けっきょくのところ東京で別段モテていたわけでもないのでアメリカに来て急にモテても自分の魅力が増したという自信に繋がるわけもなく、むしろつまるところ性愛というのは抽象的な記号によって立つところが多いのであるな、というnerdな結論に落ち着くしかないのだった。

そうなのである。わたしはいま、生まれてはじめてアジア人女性という記号を一身に背負うている。で、髪がのびまくったので最近は高い位置でひとつに結っているのだが、こないだでかいピアス(垂れ下がるやつ)を探している自分に気づき、アジア人女性のステレオタイプを強化しようとしている自分にポストコロニアル的アカデミア自我が待ったをかけたのであった。外国人として抽象的、匿名的記号に還元されることによって個人神話という絶え間ない差異化への欲望地獄から自由になるというのは皮肉なものだが、最終的な解放に至るにはまだまだ時間がかかりそうである。そんなわけでOh, me so horny, me-me so hormyと思わず口ずさむ秋の宵であった。

2010年11月11日木曜日

ラジオ体操


ここのところめっきり忙しく、そして忙しさの止む気配がない。12月の2週目までには20頁のペーパーを3本ださねばならないのだが、それまでの間も授業は粛々と執り行われる。つまり毎週400頁くらいの小説と300頁くらいの批評書を読み、それに対するコメントをレスポンスペーパーに書いて、時には10頁くらいのショートペーパーを書いたり発表をしたりして、その上でタームペーパーに備えなければいけないわけだ。ああ。

そんなわけで最近睡眠サイクルがおかしい。もともとが大人げないほどに夜型だったのだけれど、最近じゃだいたい朝の6時に寝て10時に起きて学校に行って帰ってきて昼の3時にまた寝て夜の7時に起きるというような睡眠分割体制が続いていた。これは勉強の面では思いのほか効果的でなかなか気に入っていたのだけど、身体には案外しんどかったようで、肩こりがどうもとれない。そんなわけで最近ラジオ体操を始めた。YouTubeで動画を見ながら体操するのだけれど、これがけっこう気持ちがいい。第一、第二ともにフィニッシュ近くに跳躍の後で深呼吸に入るのだけれど「弾んだ呼吸を整えましょう」というお姉さんの言葉、最後に体育の授業があった高校生のころはよく意味がわからなかったのだけれど、今は身にしみる。体育って大学院生にこそ必要な授業だ。コースワークに入れてほしい。

2010年10月30日土曜日

あたいのHalloween

アメリカ人はハロウィンに本気だ。全力投球だ。わたしの初ハロウィンはDrag Partyであった。みんな(特にMFAの人々)すごいことになっていた。そんなわけでわたしもDrag Kingデビューしてみた。今回気づいたのはあごひげとか口ひげとかがいかに安心感を与えるかということで、宴の途中汗かいて口ひげがなくなったら去勢されたようで急に心細くなり、その後ずっとあごひげを触っていた。ようやく男子のあのジェスチャーの意味がわかった。フロイトはあながち間違ってないよね、やっぱり。

2010年9月13日月曜日

emasculation


日本の大学で一緒だった友人(同時期に留学)から電話がある。英語で話すのに疲れた我々は久々の日本語での長電話を楽しむ。彼が言う。去勢の日々です、と。そうなのだ、言語というのは力でありphallusであるわけなので、言語的な不自由さというのは去勢状態に外ならない。が、なぜわたしの場合それが(比較的)frustrationにならないかといえば、わたしは去勢されて今どうやら自分のfemininityと折り合いがついてしまっているからのような気がする。涙のphallic womanを返上してアメリカで今堂々と女やってる自分てどうなんだろう、とフェミニストの自分が問う。これまでの何年間で最大の問題だったものが、言語的不自由によって(少なくとも表面上は)いかにも容易く解決している。なんということだ。でも大丈夫。4年後にはポークビッツのようなものが芽生えているはずだから。