お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2012年2月22日水曜日

Rochester, Minnesota (2)

さて話がRochester自体からはやや逸れたが、PJの両親がすむこの街は、Minneapolisから車で1時間半ほどのところにある。小さな街だからそんなに観光するところはないんだよ、とPJは言っていたが、やはり行ってみるとわたしにとっては興味深いことが山ほどある。なにしろ考えてみれば北部はNew Yorkにしか行ったことがなかったし、New Yorkはアメリカ北部の街というよりはコスモポリタンな都市なので、どちらかといえば北部の他の都市よりも東京とのほうが共通点が多かったりするわけで、RochesterはNew Yorkではおよそ見られない北部の(というか中西部の)典型的な郊外の街並を味わうことができた。

Rochesterという街はMayo Clinicという名の病院とそれを中心とした医療産業で成っている。Mayo Clinicは入院、手術というよりは主に先端治療法の開発及び各患者に対する新たな治療法の提案を行う全米屈指のNPO医療団体なのだが、もともとは南北戦争後の1863年にWilliam Worral Mayoという医師がその二人の息子とともに起こした小さな病院だったそうだ。年を経るにつれその先進的な医療技術に注目が集まり、1928年には左の写真(Plumber Buildingというのだが)のような大きな建物で治療が行われるようになった。この建物は現在でもMayo関係の医療カンファレンスや研究が行われているのだが、その内部の美しさは病院とは思えないほどである。現在ではPlumber Buildingのすぐ横により現代的なビル(前の投稿の一番最初の写真は二つの建物が両方写っている)が建てられていて、そこにはアメリカ全土および世界各国から治療困難な難病指定を受けた患者達が新たな治療法を求めてやってくる。

Mayo Clinicの街の中心たる所以は、それが地域のコミュニティを形成しているところにある。Mayoは地域住民からボランティアを募り、患者と病院のコミュニケーションの潤滑化を図っているようで、PJのお母さんも週日はボランティアとしてMayoにいる。Mayoは医療私設の人間化とでもいうのか、医療を日常から乖離したプロフェッショナルで怜悧な空間にしないことを旨としているようで、一見ホテルのような建物内(聖路加とかそういう病院にも通じるものがあるのだけど)には無数の美術品が(ほとんど無造作に)置かれている。元美術教師だったお母さんの仕事はこの作品達を説明するツアーをすることなのだが、おもしろいことに多くの作品はMayoで治療を受けた患者の家族ないし知人からの贈呈品なのだった。左のシャンデリアはホールに飾られたDale Chihulyというアーティストの作品なのだが、ひとつひとつ自らの息で膨らませたというガラスの集積は館内の光を集めて温かく輝いていた。他にも小児科には元科学の先生のおじいちゃんがいて、子供達に本を読み聞かせたり科学の実験をやってみせたりしていてこれもまた見ていて和んだ。加えてMayoを中心とするRochesterの街は実は2km四方くらいに渡って建物同士がSkywayとよばれる空中回廊と地下通路によって結ばれているので、地方から来た患者はホテルから冬の外気に触れることなく病院まで行くことができる。小さな街だからこそ実現できることなのかもしれないが、妙にしみじみと感じいって、近くのBarns and Noblesで医食同源を唱導するMayoの料理本まで買ってしまった。

たった三日の滞在ではあったが、PJの両親はなにからなにまで気を使ってくれて、クリスマスツリーの下にはAvedaのヘアケアセットをわたしのプレゼントとして用意してくれていたり、お手製のフルコース料理をふるまってくれたり、MinneapolisのMinneapolis Institute of ArtでEdo Popと題された浮世絵の展覧会に連れて行ってくれたり、北部にありながらほんとうにほっこりとした旅だった。正直に言うと、南部の人々の開けっぴろげな愛情表現(とりあえず常に両手でハグ、とりあえず常に笑顔、とりあえず常に大声)に慣れていたわたしは、最初は北部の人たちの穏やかさや落ち着きに少し戸惑いはしたのだけれど、別れ際、いつも川を見るたびにあなたのことを思い出すよ、Missisippi Riverの上流と下流でいつも繋がっているんだよ、と言ってくれたふたりの優しさは忘れ難い。先日PJのお母さんからおいしいクッキーのレシピが届いたので近々試してみるつもり。

Rochester, Minnesota (1)

話は前後するが、12月の末にPJの両親の住むMinnesotaのRochesterという街を訪れた。

"Meet the parents"というイベントがなにやらいわくいいがたいのは万国共通のようで、いかに普段はカジュアルなアメリカ人たちもこんなサイトがあるくらいにはそれなりに恋人の両親に会うのは気を使うらしい。なんだかんだこれまで付き合った人々のご家族(と書いていま気づいたのだが「ご両親」がいるボーイフレンドというのは初めてなんだな)とは割に密なお付き合いをさせてもらってきたのでこういうシチュエーションには比較的慣れているとはいえ、しかし相手が外国人となるといまひとつ距離の取り方がわからないのでなんだかふわふわと落ち着かないまま、とりあえず茶菓子を焼いて詰めた小箱を片手にMinnesotaに飛んだ。

なにしろ寒いのが嫌いで南の大学ばかりアプライしたわたしが冬にド北部に行くことになるというのはなんとも皮肉で、旅の前は連日Minnesotaの天気をチェックしては、おいおいこんな寒いとこ行くのかよ、と12月に入ってなお半袖の南部で肝を冷やしていた。なにしろMinneapolisでは昨年、フットボールスタジアムの屋根(東京ドームみたいな形の)が雪の重みで落ちたという。1月には零下20℃にもなるというその寒さは東京人の想像の及ぶところではない。ありったけの冬物下着をスーツケースに詰め込み、降り立ったMinneapolisの空港はしかし、そこまでの寒さではなかった。もちろん零下は零下なのだが、零度を下回ると大気中の水分が凍って身体に沁みなくなるので湿気のある4℃の空気よりもよほど温かく感じる、というPJの再三の説明のとおり、寒風吹きつさぶ南北線東大前駅の死にたくなるような寒さに比べればよほどに過ごしよい。拍子抜けしていると迎えにきてくれた満面の笑顔のPJの両親が、ほんとに最近はあったかくてルイジアナから来たふたりを迎えるのにはちょうどよかった、まったくスプリングブレイクみたいな天気だ、と言う。いやもしもし、滝、凍ってますけど、という喉まで出かけた言葉は無事飲み込んだ。

アメリカを旅行するたびにおもしろいなぁと思うもののひとつは人口分布だ。例えば再三繰り返しているが南部は白人と黒人がだいたい半々でその他の人種(アジア、アラブ、ユダヤ、ラテン系など)が極端に少ない。ルイジアナはフランス・スペイン系移民の影響が大きいため南部の中ではわりに特殊な多民族文化を形成しているのだが、南部の多くの州はわりにいわゆるWASP的な白人文化がやはり際立って優勢で、例えば女の子はBritney SpearsとかJessica Simpson(ブリはミシシッピ、ジェシカはテキサス出身とふたりとも南部娘なんですね)みたいな、え、それほんとにブロンド?染めてるの?というような黄味がかって根元が黒いブロンドに、なんかこう「くわっ」とした見るものを取って食うかのような顔(いやもちろんかわいいんですけど、お化粧のせいなのかなぁ、なんかむやみに激しいんだよなぁ)を理想とするようなタイプが多い。New YorkやLos Angelesにいくとこういうメディア的にクラッシックなアメリカ娘というのは実は少なくて、意外にブルネット率が高いし、もちろんいわゆる「その他」の人種との混交が如実に見られる。さてそれではMinnesotaはどうでしょう、というとこれもまたとってもブロンド率が高いのだが、この土地の場合南部のようないわゆるアメリカ的「白さ」ではなくいわゆるプラチナブロンドに近い白さなのである。同じ白人でもやっぱり違うもんだがなんでなんだろう、と思ったら、Minnesotaは昔から北欧からの移民が多いから、とのこと。どうりで街にはMarimekkoとかAlessiとかNordic Wareとか(すいません料理系のブランドくらいしかわからなくて)南部ではおよそ目にしない北欧系のメーカーが軒を連ねている。

アメリカ文学では90年代くらいからWhiteness Studyというのが(それなりにではあるが)起こっていて、白人というカテゴリーを人種のマーカーのないブランクカテゴリーとしてではなくWhitenessによってマークされた人種として研究しようというような試みがあるのだけど、十把一絡げに白人といってもいろいろあるんだなぁといまさらながら実感するのはこういう時である。PJのお母さんの家族はやはりデンマーク系移民で、古くからMinnesotaに住んでいるため、PJのお父さんとお母さんはドイツでの仕事を終えてからはふたりでここに住んでいる。PJなんてわたしから見たらメジャーリーグ見ながらビールの大ジョッキを抱えていそうなくらい(実は本人はそんなに野球に興味ないんですが)アメリカ白人そのものに見えるのだが、実際は自分のことを「白人」とカテゴライズするのに抵抗があるようである。というのも、デンマーク系で4世代に渡ってアメリカに住んでいるお母さんに対し、PJのお父さんは第2世代ギリシャ系移民で、そのお父さんは英語を話すことがなかったというのだが、ギリシャ系というのはイタリア系同様、20世紀初頭まで「白人」とは見なされていなかったため、お父さんとお母さんの1950年代の結婚とPJの誕生はお母さん方の親戚にそれなりの波紋を呼んだらしい。なるほど親戚の集まりにいってみると、皆が皆いわゆる「透けるように白い」肌にほとんど白髪のようなブロンドである。その中でPJは自分とお父さんだけは「オリーブ色だ」と言う(…が、繰り返すようだがやはり人種的圧倒的他者のわたしからみると、いやいやあんたたち白いよ、という感じなのだが、こういうグループ内の差異というのはやはり部外者にはわかりにくいものなのだ)。

2012年2月21日火曜日

Mardi Gras

なにがどうなってこうなったのだか我ながらため息とともに呆れるほかないのだが前のエントリーから半年以上が過ぎていた。

ロスから日本に帰って三週間の滞在の後にはBaton Rouge、また一週間後にPJのいるNew MexicoのAlbuquerqueとSanta Fe (そうです宮沢りえのです)に二週間ほど行き、Baton Rougeに戻ったころにはわたしの夏休みは怒濤のようにすぎていて、気づけば始まっていた秋学期は初めてのティーチングやらHoustonでの学会発表やらに戸惑いながらもなんとか無事に終わり、ようやく迎えた冬休みにはPJの家族に会いにMinnesotaに行き、そしてその一週間後には両親がBCS Championship game当日の狂乱のNew Orleansにやってきて、息つく間もなくまた春学期が始まり、なんだかんだでかれこれ一ヶ月がたつ。どこかへ行けばああこれはほんとうにおもしろいから記録しておきたいと思いつつ元来の筆無精をのさばらせた半年間だったわけだが、しかしついにそれを打ち破る破壊力を持っていたのがMardi Grasである。

プロテスタントの多い南部(通称バイブルベルト)にあって、スペインとフランス統治の長かったLouisianaはほぼ唯一カソリック文化がいまだに根強い州であるわけだが、Mardi Gras はフランス系移民のカソリック達が大陸からもちこんだカーニバルである。罪深い日々を清めるためのLent (四旬節)が始まるAsh Wednesdayと呼ばれる水曜日の直前の火曜日をMardi Gras (肥沃な火曜日、Fat Tuesday)と呼び、翌日から始まる節制の日々を目の前に飲めや歌えやの大騒ぎをしようというのがコンセプトのこの日は、New OrleansはもちろんLouisiana中が祝日となる(もちろん学校もお休みである)。しかしそもそも、明日から悔い改めの日々がはじまるからどんちゃんしちゃおうぜ、というのはとてもある種カソリック的(正統カソリックではないにしろ)で、ルイジアナ出身の友人によればNew Orleansという街の南部の中では例外的に享楽的な性格というのはカソリックの告解の慣習—ひらたくいえば「懺悔すれば許される」という信念—によって説明される、ということなのだが、いやはやほんとにNew OrleansのMardi Grasというのはありとある俗世の穢れをとりあえず具身化したようなカーニバルなのだ。

マルディグラの中心はKreweとよばれるグループが行うパレードである。上の写真のようなfloatと呼ばれる山車に乗った人々が節分の豆のごとく左の"beads"と呼ばれるネックレスを通りの人々に向かって投げる、と言ってしまえばそれまでなのだが、このbeadsを獲得するために人々は荒れ狂う。山車に乗った人々から目につきやすいように思い思いのペインティングを顔にほどこし、マルディグラカラーである紫、金、緑の衣装を身にまとい、仮面をつけ、叫び、手を振り、踊り、果ては乳を出す (マルディグラ女子に興味を持たれた方はこちらこちらの写真をどうぞ)。各パレードはだいたい1時間半くらいなのだが、マルディグラのすごいところはFat Tuesdayその日だけでなく、やくひと月前から毎週末にこの手のパレードが行われ、いよいよその日が近づくと日に5回ほど異なるKreweによるパレードが行われるので、狂乱は丸一日続く。もちろんNew Orleansは全米でも数少ない路上飲酒が許される街なのでとりあえず人々は酒の瓶を小脇に抱え、これでもかとディープフライされたチキンやらPo' Boyやらを齧り時には木陰で嘔吐しながらそれでもまだbeadsを乞う。

正直、実際にMardi Grasに行くまではおいおいたかがプラスチックだろうよ、くらいに思っていたわけだが、カーニバルの空気というのは想像を絶して個人の意識の奥底をかき回すわけで、当然のごとくわたしも一日中beadsを乞うた。理由も糞もなく実際には欲しくもないなにかを心から求めて声を上げるというのは本当に不思議なものだ。なんというか心理的に興味深いのは、自分に向かってbeadsを投げてくれ、と涙ながらに乞いに乞うその行為自体が、その馬鹿馬鹿しさもあって妙に人を開放的にするというか、まったく役にもたたないただのbeadsを心から欲望して声をあげる、その欲望の純度の高さは日常ではおよそ経験されえないがゆえに非常に貴重である。自分のためにBeadsを投げてくれたKreweのメンバーには必ずお礼のジェスチャーをするというのがルールらしいのだが、繰り返すようだがなんの役にも立たないビーズをもらってそれを後生大事に胸にかき抱き、殿上人のように高みから群衆を見下ろす存在にありがとうと訴えるという行為のabsurdさというのは物凄い。

しかし同時にパレードを見ていてわたしのなかのPolitically Correctnessが抑えきれない野暮な瞬間というのはどうしてもあった。パレードのなか、各フロートを先導するマーチングバンドとダンサー達の90%以上は黒人、フロートに乗ってビーズを投げる人々の90%以上は白人なのを目にすると、カーニバルとは日常のオーダーの転覆である、などとは言うが当たり前にこの果てしない蕩尽のために必要な金を持つものと持たざるものの境界は覆りはしないわけで、こうやってカーニバルによる擬制的ガス抜きによってやはりシステムっていうのは保持されるわけですかね、などと思いもしなくはなかった。Kreweのメンバーになるためには(Kreweの規模や性質にもよるが)通常最低でも$4,000くらいの年会費が必要だったりするそうで(ちなみに各KreweはBallというダンスパーティのようなものをパレードの前に行う。これは盛装が基本で、Tableau vivantなんかもあるほんとに19世紀的な会なのである)、人種差別というものがこれだけ公にはNGになり、加えてNew Orleansのように歴史的に黒人文化がかくもあでやかに華開いている街でも、人種の壁が経済的な壁に置き換わってはっきりとした線引きが目に見えるというのには妙にしんみりした。

というわけで半年ぶりのあたいの夏休みだったわけだが、やはり訪れるたび思うのは、New Orleansというのはけして期待を裏切らない街だということである。ただしMardi Grasの時にこの街に来るのはもちろん素晴らしいだろうが、Fat Tuesdayその日周辺にはホテルが一泊300ドル近くにもなるのでお勧めはできない(あるいは8月くらいから予定をたてればなんとかなるかもしれない)。一週間前、または二週間前の週末であれば落ち着いてパレードを見ることができるだろうし、ホテルも(それなりに)値ごろなはずなのでそのほうが安全かもしれない。そんなこんなでまた近いうちにここに—New Oelreansに、このブログに—戻ってくることを総計5kgに及ぶビーズに誓いながら、さて今日もお勉強。