お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」
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2012年9月23日日曜日

アメリカ南部で大統領選について教えるということ



さて前回のポストからすでに2ヶ月がすぎ、その間ColoradoはDenverで夢のような時間を過ごしたり、はたまたDenverからBaton Rougeまで2日20時間に及ぶ悪夢のロードトリップをしたりなどといろいろ書くべきことはあったのだけれども(そして機会があればDenverおよびSan Franciscoについては書きたいと思っているのだけれど)、今日は目眩のするように忙しい毎日のなか、妙な風邪をひいたおかげで少しだけ時間ができたので現在、目下わたしがほむら立っていることについて書こうと思うわけである。

Fall semesterが始まりひと月が経過した。アメリカに来て三年目にして生涯で間違いなく一番忙しく、青息吐息の毎日である。なぜというに今学期、わたしは授業をなぜか3つもとっているうえ、English 1001というコンポジションの授業を持っている。週三回毎朝一時間、22人の生徒を前にanalytical writingを教えるというのがこの授業のコンセプトである。週三回毎朝一時間。なんの苦があろう。世の社会人達は毎日平均睡眠6時間を優に下回りながら一日8時間以上の重労働を週に五日以上こなしている。しかしながらこれ、この週三回毎朝一時間の授業がもうなんというか、背中に燃える薪を背負いながら山を下るかごとくの荒行に思えてくるのである。

驚くべきことにその原因の第一は英語でアメリカ人に英語を教えるということにあるわけではない。最初のうちは緊張もしたし、今でも毎朝授業に向かう前にはやめたはずの煙草を一服吹かすことが儀式となっている。自分よりも明らかに英語が流暢な相手にその言語のいろはを教えるというプレッシャーは生半可なものではない。が、幸いなことにわたしがこれまでのひと月のティーチングから学んだことは、analytical writingを、ひいては批判的思考を教えるというのはまずもってinterpersonalなコミュニケーションであって、教師の側が絶対的な権威を持っているというパフォーマンスは必ずしも不可欠なものではないということだ。

この授業の目的は生徒が自律的かつ批判的に自らの思考(そして書いたもの、書く行為)を吟味できるようにすることであって、ある体系だった知識を受け渡すことではない。それはどちらかといえば自転車の乗り方を教えることに近く、生徒が自分で身体と頭を使わなければいかんせんどうにもならない。教師にできることはよき補助輪となること、そしてその補助輪を外すタイミングを見極めることであり、強力すぎる補助輪を提供することが必ずしも常に生徒の成長に資するわけではない。そんなわけで幸か不幸かわたしのような不安定な補助輪を得た生徒達はすっころびながらもそれなりの成長を遂げてくれている(ような気がする)。というのもわたしは自転車に乗れる楽しみをうれしそうに語ることと、すっころんだ生徒の傷にバンドエイドを施すことにだけは異様に長けている。中にはそんなもんいらねぇよ、おれは自転車なんて乗りたくねぇよ、ほっといてくれ、という生徒ももちろんいて、そういう生徒に関しては、たしかに自転車に乗ろうが乗るまいが、それはきみの人生だ、よし請け負おう、きみのやる気のなさできみを不合格にすることはしないから、まぁ決められたアサインメントだけはだしてくれ、あと剽窃だけはするな、といってとりあえずはほっておく。その間、自転車に乗りたい生徒たちには最大限の手助けをする。

この授業の最初のアサインメントはLiteracy Analysisといって自らがいかようにして書くという行為と接してきたかを分析することを通じ、最終的には書くということの意味について考えるというもので、これはまぁ、というか大変よかった。各生徒のパーソナリティを知るきっかけにもなったし、私的・個別的経験からある種の普遍的主張を導くという練習としてはとても効果的だったと思う。そしてなにより、誰も読み書きができない家庭に育ち、まともに書くことがままならなかったある日、教師から給食費泥棒の咎で責め立てられ、自分の無罪を立っするために必死で辞書をひいたことがきっかけでようやくものが書けるようになった、というような、こう書けば陳腐にしか響かないようなエピソードをしかし、その苦難を証だてるかごとくのたどたどしい英語で書く生徒のエッセイを読めば、なにくれと不自由なく皆が一律に読み書きができることが前提の環境で育ってきたものとして、書くことを教えるということの意義について考えざるをえない。それくらいわたしは教師としてまだ未熟であり、ナイーブであり、そしてまだこうした生徒達のエッセイにたじろいでしまう自分のナイーブさと甘ったれた理想主義をはずかしげもなく愛している。

しかしそれではなにゆえに今わたしが燃えさかる薪を背に山を駆け下っているかというに、それは所属大学の方針によりわれわれ1001の教師達は本年11月に行われる大統領選で争点となる議題を素材として生徒にペーパーを書かせなければならないのだが、正直いってわたしはまたここで、自分がここ、かちかち山に、いや南部にいるのだということを思い知らされているのである。

全共闘世代の親を持ち、東京で進学校に通い、東京で国立大学に通い、果てはなにを間違ったか人文系の大学院に通い、さらにアメリカで博士号を取得しようとしている人間(まぁわたしなんですが)は、リベラリズムの風呂に浸かってこれまでの生涯を過ごしている。よく記憶に残っているのは、高校生だったある日、わたしが母親に対しあなたは政治的にコンサバである、となにかのきっかけで言い放った時に、それまでなにをわたしが言おうとも(もう高校に行かないとさえ言っても)ああそうか、そうなんだね、と穏やかに聞いていた彼女が顔色をなくし震えながら、その発言だけは受け容れられない、と言ったことである。高校生のわたしは無論、リベラリズムの、コンサバティズムのなんたるかを全く(今以上に)理解などしていなかったわけだが、それでも理解できたのは政治的コンサバのレッテルがどうやら愛する母親にとって最大の中傷となりうることであった。それ以降は恥を忍んで告白すれば日本の、言ってみればアポリティカルな空気に怠惰に流されるまま政治についてなどとんと考えずにきたわけだが(そしてそれは全共闘世代の、そして互いの政治的立場の違いを抑圧しながら穏やかに子育てをしようとしてヒロイックに失敗した両親に対するこれまた怠惰な抵抗でもあったわけだが)、わたしのコンサバティズムに対する感情的忌避感は、アメリカの、政治的にアクティブであること、そしてリベラルであることが絶対的善であることのごとき人文系大学院においていやましに助長されてきた。

以前も「アメリカ南部でアメリカ文学を教える」ポストで書いたことだが、深南部に生活していようが、大学町に住み人文系大学院に通っている以上は、この地のコンサバティズムに触れることはほぼないといっていい。アジア系が極端に少ないこの都市であろうとも、あからさまな人種差別にあったことなどは一度もないし、むしろ街で出会う人々は朗らかで、人々が「コンサバ」であることに気づくのは、真夏の日曜日、Whole foodsで買い物をしている際、教会帰りの白人老女にいきなりむき出しの肩をさわられ、あらハニー、こんなに肌を出してちゃあ風邪をひくわよ、これをみたらあなたのママがなんていうかしら、セーターはどこなの?といわれる、などという微笑ましい(まぁ見ようによればぞっとする)エピソードを介してのみである(少なくとも幸運にも私の場合は)。しかし学部生を前に政治社会問題に触れる時に、南部のコンサバティズムはわたしの背中に燃える薪を押し付ける。生徒達は言う。Obamaは最低である、なぜなら彼の政策は怠け者たちにわれわれ善良な市民の金を与えるものだからだ。同性婚は許され得ない、なぜならそれを合法化すれば近親婚や重婚など、その他の婚姻関係を是認することになるからだ。こうした反応を目の前にした時、リベラリズムのぬるま湯にリベラルのなんたるかをも知らずに浸かりふやけたわたしの皮膚はちりちりと焼かれる。

ごく雑駁に定義すれば、いわゆるリベラリズムとコンサバティズムの対立は政府の機能と個人の権利を巡って説明されうる。リベラリズムは社会的な―階級、人種、ジェンダー、セクシュアリティを巡る—インバランスを是正するための「大きな、強い政府」を支持する。個人はそれぞれの人生に関する選択をする権利を平等に有し、その権利の追求の為には時には政府の介入が必要であるとする。これに対しコンサバティズムは「小さい、弱い政府」を支持する。逆にいえば基本的にコンサバティズムは個人がそれぞれの欲望(特に所有に関する)を追求する権利に対する政府の介入を拒む。が、あるケースに於いてはコンサバティズムは政府の介入を積極的に許す。それは国家に存するとされる「伝統的価値」を守るという目的を達するためである。言うまでもなくこれらは現代アメリカにおける「いわゆる」コンサバとリベラルの大衆理解であり、すべての立場がこの二極化によって説明されるわけではむろんないし、わたしの理解もまたこの雑駁な二項対立図式を凌ぐものではない。

が、問題なのは、この雑駁な二項対立がどうやらわたしと22人の生徒のうち少なくとも80%との間の、ただでさえおぼつかない相互理解を妨げる元となりうるということである。わたし個人としては、生徒が「怠け者の為に我々の金を使うのは筋違いだ」と言う際に、まずお前はどれだけの力と金に生まれた時からまみれてきた、誰が稼いだ金だ、誰の無力を搾取して得られた金だ、お前が怠け者という人間達をそのように知的・経済的に無力にしておくことでどれだけの人間が利益を得てきた、それを考えないお前は怠惰ではないのか、と唾を飛ばしながら言いたくなるわけだが、当たり前に教師として(そして人間としても)そんなことはできない。とりあえず張り付いたような笑顔を保ち、そうか、怠け者っていうのはどういうことなのか、考えてみよう、と言う。うまくいけば誰かが、働きたくても働けない人はいる、と言う。さらに(わたしにとって)うまくいけば誰かが、働けないのは必ずしもその人個人の責任ではない、と言う。それでも多くの生徒はうつむいてこの気まずい時間をやりすごそうとするか、頬杖をついて自分は高みの見物を決められる立場にあるというパフォーマンスをする。

こうしたコンサバのアパシーに対し、どう対処すべきか、未経験な教師であるわたしはまだなにも知らない。言うまでもなくわたしのこの授業での役割は彼らにanalytical writingのいろはを教えることであり、リベラリズムへの転向を促すことでは全くない。そしてこれまでメディアを通してしかその存在を知らなかったいわゆる「コンサバ」な存在が、自分の生徒として個人として肉化した時に、彼らの信じる「伝統的価値」や「個人の権利」を一概に議論も不要なもの、強者の特権として退けることも実はわたしにはできないし、するべきではないとも思う。というのも、同時にわかっていることは、わたしが浸ってきたリベラル風呂もまた高額の入湯料を必要とするスーパー銭湯というか高級スパのようなものだということだからだ。わたしはたまたまあの両親、全共闘世代に生まれながらそれを共闘という形で戦うという選択肢を自らの政治的判断で拒み、その罪悪感にまみれながらそれを抑圧し高度資本主義と折り合いをつけながら彼らの憎んだシステムの中ですこやかに子育てをしようとした彼らの子供である。わたしの(そしてわたしの世代の)政治的無関心はたしかに、彼らの世代のねじれた政治的無関心―失われた理想のメランコリックな抑圧―の振る舞いの写し鏡であるが、彼らがたしかに恥じながら隠し持っていたある種の政治的理想はわたしの政治的無関心の中には存在しなかった。そんな高額なぬるま湯にただで浸かってきた贅沢をいまわたしは、清算しようとしているのだと思う。

たかが必修のコンポジションの授業である。たかが週三回、一回一時間の授業である。けれども醜い狸のわたしは声も高らかにせせら嗤う美しいうさぎに対して、沈む泥舟からこう言うだろう。ほれたが悪いか、と。教育に対する愛と誇りが、三十となりいまだ子を産むことを潔しとしないわたしが自分の両親に対してできる最大限の恩返しであり、そのためには燃える薪でぬるま湯を熱くもしよう。でもちくしょう、あちぃよ、あちぃんだよ。

[Peach Pie (Pear Pie)のレシピ]
そんなわけで最近は日々頭から湯気をだしながら授業から家に帰ってくるわけだが、週末くらいはちゃんと気持ちを切り替えて心穏やかに過ごさないと身体に悪い。心に負った手ひどい火傷に対する一番の薬はうさぎのくれる軟膏ではなくて糖分なのである。よしきた、季節の果物をたくさんつかったパイを焼こうではないか。


DenverでPJとともにhouse sitterをしたおうち(PJの大学時代の友達の家なのだが)には庭に小さな桃の木が二本あった。こちらでは夏は桃のシーズンなので、ごらんのように三日に一度は抱えきれないほどの桃を収穫することになる。こちらの桃は日本のような果肉がとろけるような白桃ではなく、もう少しちいさく、酸味があって固い黄桃がメインである。しかしこの大量の桃、とてもふたりでは食べきれない。どうしたものかと考えた結果、パイを焼くことにした。どちらかといえばずっしりタルト派のわたしではあるが、アメリカでは焼き菓子といえばアップルパイに代表されるパイである(タカトシの「チェリーパイ」「欧米か」の懐かしいやり取りを思い出してほしい)。まぁいっちょ焼いてみるかと思い焼いてみたらこれがなんというかほんとうに美味しかった。

しかもこのレシピはかなり応用が効いて、固めの洋梨でもリンゴでも代替可。是非一度、季節のフルーツが大量に安売りされている時に作ってみてください。それからアメリカのパイクラストは日本のパイのようにさくさくほろほろと崩れる折りパイではなく、ガーッとFPをつかって混ぜるだけの練りパイが主流なので、これもらくちん。わたしは固めのざくざくが好きなので、キッシュの生地を使っています。


[フィリング材料]
☆黄桃 小8から10 個 (合せて1.5kgくらい。洋梨なら5, 6個くらい)
☆レモンまたはライム果汁 大1
☆ブラウンシュガー (あればバニラシュガー)70g (アメリカ 1/3 カップ強)
☆白砂糖 70g (なければどちらかの砂糖合せて140g アメリカ2/3カップ強)
☆シナモン、オールスパイス、カルダモンなど好みのスパイス 小1
☆コーンスターチ 大3
☆蜂蜜 大1
☆アーモンドエッセンス(なければ省略可)小1
☆卵 1個
[クラスト材料]
★薄力粉 240g(わたしは全粒粉を使っています)
★バター   140g(わたしは発酵バター: cultured butter を使っています)
★卵 1個
★砂糖 大1
★塩 小1/2
★冷水 30ml

①前日にキッシュの生地のレシピの①から④を参考にして生地を仕込んでおく。二つの丸くて平ためのかたまりにわけてラップできっちり包み、冷蔵庫で一晩寝かせる。
②打ち粉をした台とめん棒でそれぞれのパイ玉をパイ皿の大きさに合わせてのばす。一つはバターを塗り小麦粉をはたいたパイ皿に敷き込んで、もう一つは平たくのばしたまま、どちらも乾燥しないようラップをかぶせて冷蔵庫で保存。オーブンは215℃(420°F)に余熱。(なお、パイ皿に敷き込んだほうは、上に余った部分を左手の親指と人差し指のはらでちいさな「く」の字をつくり、生地の外側にそれをあてがい、右手の人差し指で「く」のくぼみ部分を押し込むようにすると波形ができる。)
③[桃の場合:湯剥き]大鍋に湯を沸かす。桃はお尻に包丁で大きめのX字を入れる。
④湧いたお湯に桃を投入して約2分待つ。湯きりして桃のかわをぴろぴろとはがす。なお、梨やりんごの場合はこの行程は不要。ただ普通に包丁で皮を剥いてください。桃もあまりに固いものの場合は湯剥きがうまくできないので、その場合は諦めて普通に皮を剥いてください。
⑤皮を剥いた果物をスライスしてゆく。固めの洋梨やリンゴの場合とくに薄くスライスすること。このレシピでは下煮をしないので、薄くして(1mmくらい)オーブン内で火が通るようにするのが肝心。レモンないしライム果汁をまぶし、変色をふせぐ。
⑥ブラウンシュガー、白砂糖、スパイス、コンスターチをボウルに入れ、泡立て器でよく混ぜる。
⑦果物に⑥をふりまぶし、果物が完全に⑥でコーティングされるようにまぜる。さらに蜂蜜、アーモンドエッセンスを加え、また混ぜる。
⑧②でパイ皿に敷いた生地の底に溶いた卵を刷毛で塗っていく。余った卵は上に塗るのでとっておく。卵を塗ることでパイがかりっとするが、この行程は省略可。
⑨⑧に⑦をおたまなどですくいいれていく。ボウルにのこった茶色い液体も必ず全て入れること。多すぎるかな、と思っても大丈夫。焼くと多少かさがへります。入れる時に若干中心が盛り上がるようにすると焼いた後に見栄えがいいです。
⑩ここからはいわゆる "latitce crust" といわれる、格子状のクラストの説明。②で冷蔵庫で冷やしてある平らなパイ生地をとりだし、幅1.5cm程度のストリップに切り分ける。全部で10本くらいになるはず。最初に縦になるストリップ(端から1本おきにとっていく)だけをすべて並べ、次に残ったストリップを一本ずつ横に並べ、縦ストリップの上下にくぐらせていく。lattice crustにはいろいろな作り方があり、ネットにもいろいろ載っているのだけれど、Smitten Kitchenというアメリカ人料理ブログのがわかりやすい。言葉ではなかなかうまく説明できないので、これを参考にしてください。
⑪あまったナイフでストリップを切り落とし、指で下のクラストに粘土遊びをするようにくっつけていく。⑧で余った卵液をストリップに刷毛で塗っていく。あればバニラシュガーを上からさらさらと散らしてもよい。
⑫アルミホイルを敷いた天板にのせ、215℃(420°F)のオーブンで20分。185℃(370°F)に下げてさらに30から40分。中の茶色の液体がぽこぽこと吹き上がってクラストにかかるくらいが理想(だから下にはアルミホイルを敷いた方がいいです)。
⑬粗熱がとれたら冷蔵庫で2時間から3時間冷やす。冷やさないとフィリングが固まらないので食べられない。室温に戻して召し上がれ。

ちなみにレシピの写真はさきほど鼻息を粗くして作った洋梨のパイだったのですが、焼き上がる頃にはあらふしぎ、気持ちも穏やかになっておりました。いまちゃんと冷えたのでコーヒーと食べてます。洋梨がまだしゃくしゃくとした食感がのこっていて、とても美味しいです。これで明日もがんばれる気がするよ。

2012年5月16日水曜日

Cinco de MayoとTex-Mex


さてここ二週間忙しすぎて書く時期を逸してしまっていたのだけれど、去る五月五日はアメリカではCinco de Mayoと呼ばれる祝日であった。友人Yがふざけてチンコデマヨと呼んでいたのを真に受けた素直なわたしは喜び勇んでチンコデマヨ、チンコデマヨ、と連呼していたのだが、ほんとうの読み方はシンコデマヨに近い(なぜかチンコの日本語の意味を知るPJが冷静に、おやめなさいお嬢さん、と注意してくれた)。スペイン語でそのまま五月五日を意味するこの日は、メキシカン・オリジンを持つアメリカ人たちが自分達の文化起源を祝う祝日である。


Cinco de Mayoを目前に控えた五月四日、最後の授業でわたしはGloria Anzaldua(アンサルドゥーアと読む)の "How to Tame a Wild Tongue" というエッセイを教えた。AnzalduaのエッセイはChicano/Chicanaのアイデンティティにとっていかに、Chicano Spanishという言語が重要であるかを雄弁に語る(雄弁にという言葉がクリーシェではないことをこんなに力強くかたるエッセイも中々ないように思う)。恥を忍んで言うと、たとえばChicano Literatureという言葉を聞いた時に、アメリカ文学研究専攻でありながら、…メキシコ系文学、ですよね?というくらいの雑な理解しかなかった私にとって、これをCinco de Mayoの前日、最後の授業で教える、というのはけっこう大きな感情的意味があった。一言で言えば、Chicano/Chicanaというのは、メキシコ系アメリカ人を指す言葉である(Chicanoの語源には諸説あるが、Mexicanoが変化してチカーノになった、という説が今のところは有力らしい)。もともとは貧困層のメキシコ系アメリカ人を揶揄して指すものだったChicanoという言葉をメキシコ系アメリカ人が自分達の文化的アイデンティティを示すために自ら使いだしたのは、1940年代にはじまり、1960年代後半に最盛期を迎えたChicano Movementという、一種の公民権運動の中でのことである。この運動の中で、Chicanoという概念はメキシコ人でも、アメリカ人でもない、二つの(あるいはそれ以上の)文化が交差したところに産まれるハイブリッドなアイデンティティを指すようになった。

テキサスに生まれ育ったAnzalduaは、状況に応じて多くの言語を使いわける。スタンダード・イングリッシュ(いわゆる「標準英語」)、労働者階級の使う英語スラング、スタンダード・スパニッシュ、スタンダード・メキシカン・スパニッシュ、北メキシコのスペイン語方言、そして中でも彼女がもっとも自分にとって身近に感じるとする、Chicano SpanishとSpanglishとよばれるTex-Mexである。Chicano SpanishとTex-Mex(この二つは厳密には異なるものだが)は、英語とスペイン語、それぞれのスラングや方言が入り交じった言語だ。アメリカで育つメキシコ系の人々は、北アメリカに特有のアクセントでスペイン語をしゃべるし、スペイン語に影響されたアクセントで英語を話す。二つの(そしてその多くのヴァリエーションの)言語は、どちらもChicano達の人格形成期に大きな影響を持つ。家ではMexican Spanishが使われる事が多いし、学校や公的な場では英語が使われる。自己というのは多様な層からなるもので、公的な場で振る舞う自分も、家庭内の自分も、また友人、恋人に対する自分も、すべてが自己意識の一部分を担うもので、そのどれかの状況で使われる言語のひとつだけをとりだして「自分の言語」選ぶのは不可能である。だからこそ、Chicanoの言語は、多様な言語を混ぜ合わせたものとして産まれた。Anzalduaの文章は、それゆえ、スペイン語話者ではないわたしにとっては時に難解を極める。たとえば、彼女はChicano Spanishに関してこう書く。

But Chicano Spanish is a border tongue which developed naturally. Change, evolución, enriquecimento de palabras nueva por invención o adopción have created variants of Chicano Spanish, un nuevo, lenguaje. Un lenguaje que corresponde a un mode vivir. Chicano Spanish is not incorrect, it is a living language.

それにも関わらず、彼女の文章が異様に心に響くのは、それが複数の言語に囲まれて生きる人間のアイデンティティ形成の複雑さを物語るからである。Anzalduaは言う。

Chicanas who grew up speaking Chicano Spanish have internalized the belief that we speak poor Spanish. It is illegitimate, a bastard language. And because we internalize how our language has been used against us by the dominant culture, we use our language differences against each other. Chicana feminists often skirt around each other with suspicion and hesitation. For the longest time I couldn't figure it out. Then it dawned on me. To be close to another Chicana is like looking into the mirror. We are afraid of what we'll see there. 

 中学から英語を学ぶ事が義務づけられていながら、日常では英語にさらされずに生きることができる国で育ったわたしがAnzalduaの描く二言語状況に共感するというのもおかしな話だが、standardな言語に照らした時、自分の言語がどう響くかという問題は、外国人として英語でアメリカ人にアメリカ文学を教える時に、つきまとうもののひとつだ。わたしはどれだけこの言語を理解できているのか、細かなニュアンスは、スラングは、果たして理解できているのか、わたしの英語は相手に完全に届くのか。どれだけ練習を積んでも、どれだけ大丈夫だと言われても、不安は常に残る。Standard Englishに自分の言葉を照らしあわせ、時には金縛りにあったように言葉を失いそうになることもある。ひとつひとつの言葉の発音を確認するように、授業の前には自宅で自分の書いたスクリプト―実際の授業でそれを使うことはないにしても―を読み上げる。そうやって生徒の眼差しに臆することのないように、英語で自分を作り上げる。大丈夫、わたしの英語は少しあなたたちとは違うかもしれないけれど、わたしを教師として信頼してほしい、わたしはこの作品を理解しているし、あなたたちとそれを語り合ってお互いに理解を深める準備もできているから、と、片時も崩さない笑顔で、常に語りかける。

言語とアイデンティティというのは、深くきり結ばれている。

So, if you want to really hurt me, talk badly about my language. Ethnic identity is twin skin to linguistic identity--I am my language. Until I can take pride in my language, I cannot take pride in myself. 

わたしにはChicano SpanishやTex-Mexに相応する、日本語と英語を合せたJapanglishのような言語はないので、英語で話すときは知らぬ間に、英語環境内でのアイデンティティのようなものを構築しているように思える。ひとつには日本語で話すときのようなこざかしさがわたしの不完全な英語では再現できないから、というのもあるけれど、英語のわたしは、日本語のわたしより、よく笑い、まっすぐで、表情も豊かだ。妙な話で、日本語で話していると(時に知らないひとと話している時)よく痰が絡むのだけれど、不思議なもので、英語でこれが起こった事はなくて、たぶんそれには喉のどの部分を使うかというのが関係しているのだとは思うけれど、同時にまた英語で話すときのほうが、肉体的はある種の文化的拘束から自由であるように感じる。けれど、しばらく毎日英語で話していると、日本語の自分が懐かしくもなる。下品で、賢しらだっていて、自意識過剰だけれども、同時にどうしようもなく言語そのものに対して真摯な自分が、ああ、あの人はどこにいったのかな、とふと不安になるとき、カリフォルニアにいるYと思い切り日本語で話したり、またこうやってブログを書いたりする。それは疑いようもなく、わたしの大切な一部である。だから、日本語のわたしを知ってもらうために、授業の最後には(この間のポストを書いた時から智恵子抄がやけに頭に残っていたので)、光太郎のレモン哀歌を日本語で朗読した。我ながら臭いとは思ったけれど、それは、恥ずかしいので南部訛を抑えることもあるという生徒達に、彼らの言語がどれだけわたしにとって柔らかく美しく響くかと言う事を、知ってもらうためでもあったと思うし、最後に拍手をもらった時には、やっぱりこうやって教えることができるのは幸せだな、と思った。


[Taco Saladのレシピ]
正直言って、アメリカ版のメキシコ料理であるTex-Mex(テキサスにはメキシコ系アメリカ人が多いので、独特の食文化が発達している)は、なんだか脂っぽいし重たいしで苦手意識があったのだけれど、Anzaluduaのエッセイを読んでなんだかしみじみTex-Mexのもつ文化的意義のようなものに敬意を表したくなったので、Cinco de MayoにはTex-Mexを自分で作ってみた。とはいえ申し訳ないがやはりTex-Mexの基本はメキシカンに大量の肉やチーズ、サワークリームを追加したもので(タコチップにサルサ、チーズ、ワカモーレ、タコミート、サワークリームをのせたナチョスなどはTex-Mexの代表で、メキシコではあまり食べないそうだ)、三十路を目の前にした身体にはしんどいものがあるので、ここはひとつTex-Mexの中でも比較的ヘルシーなTaco Saladを作ることにした。いろいろネットでレシピを検索したのだが、驚くべきことに多くのレシピが材料に「サラダドレッシング:1本」と明記しているのがそれにはさすがに腰が引けて、このレシピでは濃い味のタコミートでほとんどドレッシングいらずのサラダを実現している。材料は4人分だがいつもどおりPJとふたりで完食した。見かけはいまひとつですが、おいしいです。


☆アイスバーグレタス 小1玉
black bean salsa (またはふつうのサルサ)1カップ
☆トマト 2つ
☆オリーブ 5つ(なくても可)
☆トルティーヤチップ 好みの量(多め:袋1/3くらいがおすすめ)
☆シュレッデッドチーズ 1/2カップ(わたしはメキシカンミックスを使っています)
☆玉ねぎ 1/2個
☆にんにく 1かけ
☆ひき肉 200g(わたしはここではground turkeyを使っていますが、beefでももちろん可)
★オニオンパウダー 小1
★チリパウダー 小2
★パプリカ 小2 (あればスモークドパプリカ)
★クミン 小1
★カイエンヌペッパー 小1/2から1
★ガーリックソルト 小1 -2(味を見ながら)
★砂糖 大1/2-1
(上記★はタコシーズニング大1から2でも代用可)
◎シラントロ ひとにぎり
◎アボカド ひとつ
◎グリークヨーグルト 1/3カップ(またはvegenaise 大2)
◎ライム 1
◎蜂蜜 大1
◎ガーリックソルト 小1/2-好みで
◎タバスコ 好みで
(上記◎はアボカドドレッシング用。市販の好みのドレッシングで代替化)

①たまねぎ、にんにくはみじんぎり、トマトは8mm各のダイスに。
②フライパンにオイルを熱してにんにく、たまねぎの順に炒める。
③両方とも透明になったら(またはうっすら色づいたら)ひき肉をいれ、さらに炒める。色づいてきれいにほぐれるまで。
④シーズニング(★)を順に加えていく。これは好みなので(そして完全に上の分量も感覚なので)味を見ながら。サラダのトッピングなので辛目&濃い目がおいしい。
⑤トマトの半量(一つ分)を加え、さらに炒める。トマトの水分が完全に飛ぶまで。
⑥アイスバーグレタスは粗めの千切り、オリーブはうすぎり、チップスは袋のなかで粗く(あくまでとても粗く)くだく。
⑧ドレッシングを作る。シラントロは細かいみじんぎり、アボカドは身をくりぬいてフォークの背で潰してクリーム状に。ヨーグルトその他の材料を混ぜ合わせる。
⑨大きなボウルでアイスバーグレタスと残ったトマトのダイスを和える。その上にサルサ、チーズ、⑤のタコミート、チップス、オリーブを順番に乗せていく。
⑩アボカドドレッシングを添えて、それぞれとりわけて、ぐちゃぐちゃに混ぜて食べる。


[Cevicheのレシピ]
セビチェ、と読むこの料理はTex-Mexではなくて普通のメキシカンなのだけれど、たまに無性に生魚が食べたくなるわたしにとって救世主ともいえる料理である。ただし大量のレモンおよびライムを絞ることになるので、ある意味ではレモン哀歌な料理でもある。レストランではけっこう値段が張るのにおさらにちょこっとしか出ないけれど、自分で作ればこれでもかというほどお腹いっぱい食べられます。あとやっぱり見た目がとてもきれいで夏にぴったり。


☆ティラピアなど、白身の魚 400g
☆レッドオニオン 1/2個
☆シラントロ ひとにぎり
☆serrano pepper 2つ(またはjalapeno 1つ)
☆トマト 小1個(できればromanoなど、水分少なめのもの)
☆red (yellow, orangeでも可) bell pepper 1つ(省略可)
☆にんにく 1かけ
☆しょうが 1かけ
★レモン 2つ
★ライム 10個
★すし酢 大2
(★柑橘類の絞り汁と酢を合せて250ccになるように。わたしはレモンの酸味が苦手なのでライムをたくさん使います。香りがよいです。お酢は本来なら使いません。)
☆蜂蜜 大1-2
☆塩 小1
☆昆布茶 小1(なければ塩をすこし増やして)
☆カイエンヌペッパー 好みで

①レッドオニオン、シラントロ、serranoまたはjalapenoはすべてみじんぎり。しょうがとにんにくはすりおろす。トマトは8mm角のダイスにして、種を取り除く。bell pepperも同サイズのダイスに。
②★をすべて絞り、蜂蜜、塩、昆布茶、カイエンヌペッパーで調味。
③魚は1cm各のダイスに。骨も皮もすべてとってあるものをつかうこと。
④ガラスの器など、酸化しない容器に①から③をすべていれ、混ぜ合わせる。冷蔵庫で2-3時間マリネする。途中でかき混ぜて、魚の断面がすべてマリネ液で覆われるように。ピンクがかった魚が白くなれば食べごろ。邪道だが食べる時に数滴しょうゆをたらしてもよい。


そんなこんなで、今年も無事にアカデミックイヤーが終わり、ついにまた夏休みがはじまった。San Franciscoで行われるAmerican Literature Associationの学会で発表をしてから、友人Yの待つLAにしばらく滞在して、6月には日本に帰る。大切な人たちに、それから日本語の自分自身に会える、わたしにとってはかけがえのないひと月である。なので多少髪の毛が伸びすぎていてポニーテールにしていてアメリカのアジア人みたいになっていてもいじめないでほしいと思う。わたしだって前髪作りたいけど、こっちの美容院、どんなことになるか恐ろしくてまだ行ってないんです。だってみんなすげぇぱっつんなんだもん…

2012年5月1日火曜日

お豆いろいろ

That time of the monthというのは日本語の「いまアレなの」にあたる婉曲表現なわけだが、いまはthat time of the semester、男女とわずまわりのすべての大学院生がPMS並みにとんがる学期末である(ちなみにアメリカにいると当たり前だがPMSという概念が日本より浸透しているのでけっこうそのへんのコミュニケーションが楽である)。ペーパー書きというのは案外体力勝負で、忙しいからといって栄養補給を怠っていると頭が働かなくなる。以前のエントリーでも書いたけれども、肉食系の顔に似合わず肉がそんなに食べられないわたし(肉は好きなのだが食べるとけっこう腹をクリティカルに壊す)は、こちらにきて主たるたんぱく源がお豆になって以来、めっぽう体調がよい。アメリカはほんとうに驚くほどベジタリアンが多く、ベジタリアン用にいろいろおいしい豆レシピがあるので、今日はお豆料理をすこしばかりご紹介しようと思います(ええ、レシピ紹介のエントリーでこの画像はないだろうとは我ながら思いましたよ)。

[Baked Beans のレシピ]
好き嫌いはあまりないほうなのだけど、はじめて baked beansの缶詰を(ふつうの豆缶と間違えて買った)開けて食べた時は飲み込む事が困難で涙目になった。甘い、脳天をつくほどに甘いのだ。あんこだと思って食べればいけるのかもしれないが、あんこにしてはたまねぎの風味があるからなんか変だし、こいつはすごいパンチのあるアメリカ料理を食べてしまった、と思っていた。が、それを眉根に皺を寄せてPJに話したところ、いや…実はけっこうbaked beans好きなんだよね…と濡れた犬のようなまなざしで言っていたので、これはいかんと思い、わたしも食べられるようにアレンジしたのがこのレシピ。というのも前述のようにbaked beansは缶で売られていることが多いのだけれど、なんと1860年代、南北戦争時にはbaked beans缶が兵士たちに支給されたというほどにこれは歴史が深いアメリカ料理なのだ。しかもbaksed beansはBoston baked beansとも呼ばれるほどニューイングランドに根付いた料理なのだが、PJは大学時代から約10年をボストンで過ごしているので、これは貧しくとも光り輝いていた大学時代を思い出させる青春の味でもある。わたしがアジア系のグローサリーショップで買った大事な納豆を食べていたときにPJが、いやしかし聞きしに勝るさすがの匂いだね、といっていてやや悲しくなったのを思い出しもしたのだけれど、やはり食の好みはいろいろとはいえ、慣れ親しんだ故郷の味を無理と言われるのは辛いものだものね。もともとのレシピはもちろんしょうゆなしのシロップ増し(本格的なものはアメリカ文学ではお馴染みのmolassesという精製していない糖蜜を使います)。けれどもこのバージョンはしょうゆに加え生姜が効いていて、四人分をふたりで丸々完食したくらい美味しかったです。ポイントはとにかくベーコンをかりっと炒めることでしょうか(いきなりベジタリアンレシピではなくなっているところがわたしの業の深さだが、baked beansは別名pork beans。豚はかかせないのだ)。

☆豆の缶詰 (あればPinto beans、なければred kidney)2つ
☆たまねぎ 1つ
☆にんにく 1かけ
☆しょうが 1かけ
☆トマト 1つ
☆ベーコン 厚切り 4枚 (300gくらい:ブロックならさらによし)
☆メープルシロップ(またはmolasses)75mm
☆しょうゆ 50mm
☆ケチャップ 大3
☆ドライマスタード 大1
☆フライドオニオン (あれば)適量

①オーブンは180℃(350°F)に余熱。
玉ねぎ、にんにくはみじんぎり、トマトは1cm角のダイス、しょうがはすりおろし(みじんぎりでも可)、ベーコンは1.5cm 幅に切る。
②熱したフライパンでベーコンを炒める。炒めるというよりは、ベーコン自身からでた脂で揚げるような感じになる。とにかくじっくり熱すると脂が大さじ3くらいでてくる。かりっと色づいたらキッチンペーパーに乗せて脂をきる。
③ベーコンのあぶらを大1ほど残して捨てる。にんにくをいれて(しょうがもみじんぎりならこの段階で)ゆっくり熱し、香りがたったらたまねぎを投入し、ほんのり色づいてしんなりするまで炒め、取り出す。
④同じフライパンでトマトを炒める。余計な水分が飛べばOK
⑤メープルシロップ、しょうゆ、ケチャップ、マスタード、おろししょうがをまぜあわる。
⑥豆の缶詰をあけて軽く水洗いし、ボウルにいれてベーコンの2/3量、たまねぎ、にんにく、トマトとあわせ、⑤をかけてさらにまぜる。豆をつぶしすぎないように。
⑦耐熱皿に⑥をいれ、残りのベーコン、フライドオニオンをトッピングし、1時間半ほどオーブンで焼く。15分ほど置いてからめしあがれ。

[Peas and Rice のレシピ]
恥ずかしながら子供舌のわたしは白米があまり好きではないので小学校の給食の際にはけっこう苦労したクチなのだが、そのかわり混ぜごはん系には目がない。我が家はおばあちゃんが毎月お赤飯を炊いてくれいた(冒頭の話に戻るようだが別に女家族の月のものに合せていたわけでもなんでもなく、ご先祖様の命日が月に一度はあるからである。さすが不動尊のお膝元な我が家だね)のだけれど、この季節になるとそれがグリンピースの豆ご飯になる。懐かしいなぁ豆ご飯、と思っていたら、PJがしみじみと peas and riceが食べたい、と言っていたので、おやこれは日米同じ感覚なのかなと思ったら、実際にはこれは単にPJがグリンピース好きなだけで、アメリカでメジャーな料理ではないそう(そのかわりご飯ではなくpearl onionと呼ばれる小玉ねぎとグリンピースをクリーム煮にしたものは人気でwhole foodsのデリでもけっこう頻繁に出ている)。こちらはPJが作ってくれたなぜかすこしインド風の豆ご飯のレシピで、シナモンとガラムマサラが効いてぱくぱくいけてしまう。自分で再現したこの写真ではうちにブラウンライスしかなかったのでそれをつかっているのだけれど、もともとPJは白米で作っていて、そのほうがグリンピースには合ったし、白に緑がよく映えました。

☆お米  1.5合
☆冷凍グリンピース 1カップ (日本のカップなら1.5弱)
☆玉ねぎ 1/2個
☆しょうが 1かけ
☆ガラムマサラ 小1
☆シナモン 小1/2
☆塩こしょう 好みで

①ごはんはふつうに炊いておく。
②しょうがはみじん切り、たまねぎは粗く刻む。
③冷凍グリンピースはレンジで1分ほど加熱し、解凍しておく
④フライパンにオイルを大1熱し、ショウガ、ガラムマサラ、シナモンを弱火で炒める。
⑤香りがたったら玉ねぎを投入、うっすら色づくまで炒め、塩小さじ1弱で味付け。
⑥炊いたお米と解凍したグリンピースをフライパンにいれ、まんべんなく混ぜ、味をみて塩こしょうで仕上げ。

[Roasted Pepper Hummus のレシピ]
もともとは中東の料理のハマス、けれどもアメリカではベジタリアンの常食の代名詞でどこのスーパーにも間違いなく置いてある。平たくいえばひよこ豆のペーストで、野菜スティック(セロリやベイビーキャロット)のディップにもなるし、ピタブレッドやクラッカーにつけて食べれば朝ご飯にもなる。たっぷり入った1パックが3ドルしないくらいなので買ってしまえばいい話なのだが(そしてわたしは買って安くておいしいものは買う主義なのだが)、手作りのほうが断然おいしいのもまた事実。タヒニという胡麻のペーストの瓶を買ってしまえばあとはアレンジは自在、毎週好みの味のものを作りおきして冷蔵庫に入れておけば小腹が空いた時にとても助かるので忙しい大学院生にはお勧めです。こちらのレシピはroasted bell pepperというパプリカを焼いたものの瓶詰めを使ったバージョンだけれども、もちろんただひよこ豆、タヒニ、にんにく、塩こしょう、レモン、クミンだけのシンプルなものでもおいしい。ちなみにこちらに来て学んだのは中東料理はギリシャ料理(これまたPJの故郷の味)にとても似ているということ。なのでこのレシピでは高カロリーのタヒニを使いすぎないようにタヒニと無脂肪のグリークヨーグルトを半々で使って、同じ地中海地方のイタリアンスパイスを使っている。グリークヨーグルトはベジネーズ、または低脂肪のマヨネーズでも代替可です。

☆ひよこ豆の水煮缶詰 1つ (煮汁とわけて豆は水ですすぐ)
☆缶に入った煮汁 30-50mm (缶の煮汁を使うのに抵抗があれば水、あるいはオリーブオイルで代替可)
☆ローステッドベルペッパー 4きれ
☆にんにくすりおろし 1かけ分
☆タヒニ 大1-2(日本ならば練り胡麻で代替可。ただし練り胡麻のほうがタヒニよりかなり濃いのでその場合は大1で十分。好みで味をみながら)
☆プレーンヨーグルト(またはベジネーズおよびマヨネーズ、なければタヒニを増やす) 大1
☆トマトペースト 大1
☆レモン絞り汁 1つ分
☆砂糖 小1-2 (はちみつでも可)
☆塩こしょう 小1 (好みで)
☆イタリアンハーブミックス 小1
☆パンプキンシード 大2

①パンプキンシードはフライパンでから煎りしておく
②パンプキンシード以外の材料をすべてフードプロセッサーにかける。テクスチャーもも好みなのだが、最初は水分(煮汁または水、オリーブオイル)少なめで始めて、ゆるめが好みなら分量を増やす。
③②にパンプキンシードを練り込んで完成。

[Black Beans Salsa with Tortillaのレシピ]
またサルサか、という感じだが暑い国の人たちは暑い時になにを食べればよいかよく知っているわけで、うだるような暑さの日にはメキシコ料理に勝るものはない。最近メキシコ人とエルサルバドール人のカップル(El SalvadorというのはMexicoの南、Guatemara、Hondurasに面した小さな国で、El SalvadorというのはThe Savior、つまりキリストを意味する)と友達になったのだけれど、彼らの作るメキシコ料理とスペイン料理には、おいしすぎていつも涙が出そうになる(そしてたいていこれまたプールサイドか裏庭で食べる)。これはblack beansとtortillaを使っているのであっさりしていながら腹持ちもするレシピで、暑くていまいち食欲のでない朝のごはんにはぴったりだと思う。この分量でサルサは大きなタッパーウェア一つ分(カップ3から4くらい)できます。

☆トマト 大2つ
☆ブラックビーンズの水煮  1缶(少しスパイシーに煮た缶詰も売っているのでそれでもおいしい)
☆玉ねぎ 1/2個(できればred onion)
☆serrano pepperまたはjalapeno 1つ
☆冷凍コーン 1/2カップ(日本のカップなら2/3カップ)
☆シラントロ(香菜) ひとつかみ
☆にんにくすりおろし 1かけ(チューブのほうが辛みは抜けている)
☆塩(ガーリックそると) 小1
☆ライム 2つ またはレモン1つ
☆スモークドパプリカ 小2-3 (なければ普通のパプリカおよびチリパウダー。これらは見た目に反して辛くない。むしろ甘い)
☆トルティーヤ 人数分
☆チーズ (シュレッドしたものならひとり大1-2くらい、スライスならひとり一枚。わたしはmexican mixのシュレッドかpepper jackというスパイシーなチーズのスライスを使う)

①玉ねぎは細か目のみじん切りにして砂糖大1をふりかけ、ザルにおいて空気にさらす。トマトは8mm程度のダイス、シラントロはみじんぎり、serrano pepperは極こまかいみじんぎりにする。ブラックビーンズは缶をあけ、流水でよくすすいでザルにあげてよく水をきる。
②①とコーン、にんにく、塩、パプリカ、ライムまたはレモンの絞り汁をあわせてよく混ぜる。
③アルミホイルにトルティーヤを置いてその上にチーズをのせ、350°F(180℃)のオーブン、またはオーブントースターに入れてチーズがとろけるまで。
④サルサを好みの分量のせて、折り畳むようにしてがぶっと食べます。サルサのジュースが垂れてくるのでお皿は必須。

[Red beans and riceのレシピ]
そして忘れてはならないのがred beans and riceである。Baked beansが東海岸を代表する豆料理なら、red beans and riceは間違いなくLouisianaの誇るCreole豆料理である。こちらのレストランでは月曜日のランチスペシャルにred beans and riceが出されることが多く、なんでだろうと思っていたらもともとはお洗濯の日である月曜日に、日曜日の夕食のお肉の残りと一緒にことこと豆を煮込んだのがこの料理のはじまりだということ。本格的なものはham hockという骨つきの豚肉を使うのだけれど、こちらはAndouilleというLouisiana特産の粗挽きの太いソーセージ(もちろん旨辛いんだなこれが)を使った簡易版。けれども味は秀逸で、Louisianaローカルの友人にも誉められました。

☆red kidney beans 2缶
☆ベーコン 厚切り2枚 (わたしはpepper smoke baconというまわりに黒胡椒のついたものを使います。150gくらい)
☆Andouille 1本 (またはチョリソーなど辛めのソーセージ。なければとにかくおいしそうな太いソーセージ。200gくらい)
☆たまねぎ 1個
☆セロリ 5茎
☆Green Bell Pepper (ピーマン)1つ
☆Red Bell Pepper  (パプリカ)1つ
☆にんにく 2かけ
☆トマト 1つ
☆スモークドパプリカパウダー  (なければ普通のパプリカまたはチリパウダー)大1-1.5
☆タイム 小1
☆Cajun seasoning 小2(わたしはTonny'sというブランドのものを使っていますが、手に入らなければCayenne pepper 小1にガーリックパウダー小1で代用してください)
☆Worcestershire sauce 小1.5 (日本ではウスターソースの名で売られているあれです。わたしはあれ、薄いからウスターなのかと思ってましたよ)
☆蜂蜜 小1.5
☆チキンブロス 500mm
☆炊いたごはん 適宜
☆Green onion(青ネギ)少々

①red kidney beansは缶から出して水ですすいでおく。
②にんにく、玉ねぎ、セロリは粗めのみじん切り。Bell Peppersは両方8mm角のダイスに。トマトも同様。ベーコン、ソーセージはそれぞれ1cm幅に切る。
③フライパンをよく熱して、ベーコンを炒める。炒めるというよりは己の脂で揚げ焼きにするように。かりっとするまで。ペーパータオルにあげて余計な脂をきる。
④フライパンには大さじ2くらいの脂が残っているので、一度火をとめてそのなかににんにくを入れ、弱火で熱する。香りがでたらたまねぎ、セロリのみじんぎりをよく炒める。軽く色づくまで、15分くらい。
⑤Bell Peppersを入れてさらに5−10分炒める。以前にも書いたがこの、たまねぎ、セロリ、ベルペッパー(ピーマン)をじっくり炒めたものがholy trinityと呼ばれる香味野菜の三位一体で、多くのCreole料理のベースである。塩こしょう(ガーリックソルト)、Cajun seasoning、パウダー、タイムを加えて炒めあわせる。
⑥お鍋に⑤の野菜と③のベーコンを移しておく。
⑦⑤の野菜を炒めたフライパンに(野菜のうまみがでているから洗わない)クッキングスプレーをして薄切りにしたソーセージを両面焼いていく。Andouilleは特に柔らかいので炒めると崩れてしまう(それはそれでひき肉みたいでおいしいのだけれど)。焼き上がったらお鍋に入れる。
⑧⑦のフライパンで①の豆を軽く炒め、お鍋に。最後にトマトも軽く炒める。
⑨鍋にひたひたになるくらいチキンブロスをいれ、1時間半ほど極弱火で煮込む。途中何度か灰汁をとって(灰汁をとるという発想はあまりアメリカにはないのか、どのレシピを見てもこの記述はないのだが、こういう料理だとつい灰汁をとりたくなる日本人の性)。
⑩水分がだいぶ少なくなったら、Worcestershire sauceと蜂蜜を加える。ソーセージの味によってだいぶ辛みに差が出るので辛くしたければcayenne pepperやCajun seasoningで調味。
⑪しばらく置いて味を馴染ませたら、炊いたごはんのうえにたっぷりかけて召し上がれ。仕上げにgreen onionを刻んだものを乗せると香りがさらにいいです。


というわけで、お豆レシピのエクストラバガンザであった。学期末にこれだけレシピをアップロードするわたしは筆まめなのかしら、豆だけに、うふふ。と思ったが、これをペーパーからの逃避と呼ばずしてなんと呼ぶ。とにかく学期の終わりまであと二週間をきったので、ふんどし締め直してラストスパート、がんばります。

2012年4月13日金曜日

プールサイドでメキシカン

日本で春休みといえば、春は名のみの風の寒さや、という歌がしっくりくる、柔らかい陽射しに包まれながらひんやりとした芯を残すあの空気が思い出されるのだけれど、Louisianaの春休みはというとこれが、春は名のみの灼熱の太陽、抱いて抱いて抱いてセニョリータなお天気なのである。四月だというのにスタジアムにいけばひとびとは半裸体、歩いているだけで汗がしたたるようなこんな暑い日はそう、なんだか水辺でさっぱりしたものが食べたいな。

アメリカ人は休みの前となると必ずといっていいほど休みのプランを訊ねあう。たとえふつうの週末であっても、週末はどうするの?というのが金曜の定番の会話だし、月曜になると週末はどうだった?となる。こちらに来たばかりのときはなんというか、この休みにかける意気込みというか、休みは休みで遊ばなければ人間失格、みたいなこの文化に違和感があったのだけれど(だって日本じゃ誰もそんなこと聞かないじゃないですか)、二年も経つと当たり前にこれにも慣れてきて、春休み直前ともなれば当然のごとくTA仲間(アラサー女子4人)とSpring Breakどうするぅ?という会話にもなる。とはいえこいそがしい大学院生どうし、さしてお互い予定がないのはわかっているし、4人が4人とも小脇に30本のペーパーを抱えているわけで、えぇ、どうせグレーディングとペーパー書きだよ、今年30になるから決意の大人黒ビキニ買ったのにさ、着る機会なんてないんだから、とむくれていたら、一番年上のAが、お嬢さんビキニ着れるのも今のうちだから、うちにおいでなさいな、みんなでプールサイドでグレーディングしながらマルガリータでも飲みましょうや、という。


日本で自宅にプールというと小室哲哉かよという感じ(繰り返すが今年30になるのでなんと言われても小室哲哉の例は譲らない)なわけだが、アメリカの南では家にプールがあるというのはそんなに珍しいことではない。わたしの住んでいるところははもちろんLSUの大学院生用の築50年という年季の入ったボロアパートなので当たり前にプールなどないのだけれど、月に700ドル程度のアパート(Baton Rougeは家賃が安いのでこれで2ベッドルームのアパートが普通に借りられる)にも共用スペースにそれなりのプールがついているし、教授の家に行けば大抵これもまたプールがある(ただし一戸建ての場合プールに水を入れる水代ももちろん個人負担となるので、おじいちゃんおばあちゃんの先生のうちのプールには水がはいっていないこともある)。今年35になる生粋のLouisiana娘Aは結婚してちいさな子供もいるのだけど、昨年ついにプールのついた家をSaint FrancisvilleというBaton Rougeから車で30分くらいの街に買った。子供がいなければプールに水を張るのもめんどうくさい(掃除がけっこう大変なんだそうだ)のだけど、3歳の娘はすでにビキニをねだるお年頃、せがまれてプール開きをしたのでせっかくだから遊びにきたら、ということなのである。もちろんいつものごとくグレーディングとは名ばかりの小規模なポットラックになるわけだけれど、こうも暑いと秋冬にパーティに持っていくような焼き物はとてもじゃないが喉を通らない。そんなわけで今回はさっぱりしてお酒のおつまみにもなるメキシカンな野菜料理(くどいようだがアラサー女子、わたし以外はベジタリアンである)を持っていくことにした。

日本ではメキシコ料理というのは案外人気がなくて、わたしも日本にいた時は新宿のサザンテラスのエルトリートくらいしかいったことがなかったのだけれど、アメリカではどこのスーパーにいってもトルティーヤやタコチップ、サルサにワカモーレが普通に売られているし、写真のメキシカンのファストフードチェーン、Taco BellはMcDonaldと同じくらいの人気である。肉、炭水化物、乳製品の三位一体からなるアメリカ料理とは対照的に豆と野菜をふんだんにつかったメキシカンはわりとお腹に優しくスパイスが効いて暑くても食が進むので、ベジタリアンにも人気である(PJの家に3ヶ月ほど住んでいたインド人留学生Nのインド人コミュニティ作成による「留学の手引き」には「アメリカのご飯を食べ続けていると病気になるので、インド料理が手に入らない時はメキシコ料理で我慢しましょう。」とまじめに書いてあってなんだか笑えた)。とはいえここは南部、アジア人だけでなくラティーノ人口も驚くほど少ない地域なので、メキシカンレストランはそこそこの数があるのだけれど、カリフォルニア生活の長いPJに言わせれば、食べながら涙がにじむほどに残念なお味だと言う。実際わたしも何度かメキシカンレストランに足を運んだのだけれど、うーん、なんというのだろう、何を食べても同じ味がするというか、味に深みもコクもなく、首をかしげて終わることが多かった(正直に告白するとTaco Bellがいちばんまともに思えるくらいだった)。

が、わたしのアメリカ的メキシコ料理に対する思いを決定的に変えたのが去年のNew Mexicoへの旅であった。夏になると暑さと湿気の苦手なPJはLouisianaにはとうていいられないので、数十冊の本と飼い犬のFootyを白いヴァン、その名もMoby(白い鯨のMoby Dickから)に乗せて、休みが始まるや一目散に南部を飛び出す。今年はNew Mexicoだよ!友達が旅行するんで 一ヶ月半くらいhouse sitをしてほしいって!と興奮する大きな図体の少年に、よかったねぇ、楽しんでおいでね、と言ったら、なに言ってんの、Maddieも来るんだよ、あたりまえでしょ。と言われて一瞬凍り付いたのだけど、なにはともあれアメリカ西部というのはアメリカ人作家達の見果てぬ夢の地であるので(もちろん当時ペーパーを書いていたWilla Catherもアメリカ西部に残るNative American文化に魅せられたひとりで、The Professor's HouseはNew Mexicoを巡る物語でもある)、研究者のはしくれとしてはアメリカにいる間にその地を訪れないわけにはいかない。緑深きLouisianaとは対照的な赤土の大地と鼻血がでるほどに極限まで乾燥した空気、Grand Canyon周辺での産まれて初めてのキャンプや写真のTaos PuebloというNative American reservation訪問など、この旅はほんとうに貴重な思い出をたくさんくれたのだけれど、中でも特筆すべきはメキシコ料理のおいしさだった(ええNew Mexicoですから)。「アメリカ料理」という言葉がどうもしっくりこないのはこういう風に、地方ごとにおいしいものがまったく違うからなのだけど、とにかくスーパーに何気なく置かれたサルサでさえもおいしく、最初は自分が食べているのがあの南部で食べたサルサと同じものだと気づかず、なにこれ超おいしいね、なんていう料理?といいながら冷蔵庫に入っていたサルサ一瓶を完食し、PJに爆笑された。以下のサルサのレシピはその瓶に書いてあった材料をさらにわたし好みに改良したもので、New Mexicoから帰ってから暑くなると必ず作り置きしているものです。

[基本のSalsaのレシピ]
☆トマト 大3個
☆レッドオニオン 大1/2個
☆シラントロー(香菜)の葉っぱ部分 片手に一握り
☆セラーノチリ 1個 (青唐辛子なのだけれど、手に入らなければもちろんハラペーニョでもよいし、それもなければタバスコ10ふりくらい。その場合は塩を控えめに)
☆コーン お好みで。入れなくてもいいけれど、入れると甘みが出てよい。
☆ライム 2個 (またはレモン1個)
☆クミン 小2 (なんといってもこれが決め手な気がする)
☆お酢 大1 (いつものとおりすし酢を使いますが、正統レシピではこれはいれません)
☆ケチャップ 大1(これも正統レシピではいれないのだけれど、入れるとコクが出るのでわたしはついつい使ってしまいます)
☆塩こしょう 好みで

①玉ねぎは細かいみじん切りにして、砂糖大1をまぶしてザルの上で空気にふれさせ、辛みを抜く(流水に浸してもよいのだけれど、水っぽくなるのがいやなのでわたしはこの方法を使っています)
②トマトは1cm角のダイスに。余計な水分を除いてボウルに。種を除くレシピが多いのだけれど、種にうまみがあると試してガッテンで聞いて以来、真偽のほどはわからないけれどなんとなくわたしは種を残しています。
③セラーノチリは種を除いて極細かいみじん切りにしてボウルに。チリを切った後の手で目をこすったり局部を触ったりすると悶絶することになるので調理後は死ぬほど石けんで洗ってください。
④シラントローも細かいみじん切り。コーン、辛みを抜いたオニオンと一緒にボウルに入れる。
⑤ボウルにライムの絞り汁、クミン、ケチャップ、お酢を入れ、ゴムベラで全体をよく混ぜる。塩こしょうで調味して出来上がり(わたしはどうしてもひと味足りない時は昆布茶を足します。トマトの質によるので)。そのままでもアペタイザーになるし、写真のトルティーヤチップス(トルティーヤを揚げた、あるいは焼いたチップス。要は濃い味のついていないドリトスです)と一緒に食べるとおいしいスナックに。

[Mango Salsaのレシピ]
サルサというのはいろいろなヴァリエーションがあるのだけれど、なかでもお気に入りはマンゴーを使った甘酸っぱいもの。これは魚料理とよくあうので、下味を着けた白身魚のソテーに乗せるととてもきれいだし、爽やかでとてもおいしいです。マンゴーが安売りしている時にはぜひ試してみてください。

☆マンゴー 3個から5個
☆レッドオニオン 1/2個
☆セラーノチリ  1個(これもハラペーニョまたはタバスコで代用可)
☆シラントロ ひとにぎり
☆パプリカ 1個 (トマトでも代用可。なければ抜いても大丈夫です)
☆ライム 2個 (またはレモン1個)
☆塩こしょう 好みで

①レッドオニオンは基本のサルサ同様、辛みを抜くためにみじん切り後砂糖をまぶしてザルの上で放置する。
②マンゴーはヘッジホッグ(ハリネズミ)のように切る。マンゴーを厚みの薄い方を正面にくるようにして立て、真ん中に平たい種があるので、それを避けるように両側を切りおとす。真ん中ができるだけ薄くなるように。
③切り取ったマンゴーにナイフで格子状に切れ目を入れる。皮を切らないように、でも下まで刃先が届くように。
④真ん中をぐっとおすと、写真のようにマンゴーの実が花開くので、ダイスになった果肉を皮からそぐように切り落とし、ボウルへ。
⑤チリペッパー、シラントロは極細かいみじん切り、パプリカないしトマトは8mm角のダイスにしてボウルへ。
⑥ライム果汁、塩こしょうで調味。けっこうきつめに塩こしょうをしたほうが甘みとのバランスがとれて食べ物にはあいます。わたしはここでも懲りずに昆布茶を使うことがあります。

[Fish Tacosのレシピ]
タコスというとぱりぱりと固いタコシェルにひき肉の炒めたのやレタス、ダイスにしたトマトを乗せて食べるのが主流で、それはそれでとてもおいしいのだけれど、今回はせっかく安売りのマンゴーでおいしいサルサを作ったので、魚を使ったタコスを作ってみた。タコス部分自体も、揚げたシェルではなくて素のままのトルティーヤをつかっているのでとてもヘルシーです。

☆白身魚(tilapiaやmahimahiなど。日本なら鱈とかなのかなぁ。こちらでは皮をはいだ白身魚がけっこう売っているのだけれど、考えてみたら日本だとあまり見ない気が…手に入らない場合は、鶏の胸肉などでもおいしくできるはず)500g
☆トルティーヤ 6枚(いわゆる「ラップサンド」で使われているあれです)
☆マンゴーサルサ 適宜
☆ロメインレタス 1株
☆レッドオニオン 1/2個
☆マリネード (ライムの絞り汁2個分、お酢大2、にんにくすりおろし2かけ、はちみつ小2、ライムの皮のすりおろし2個分、クミン小2、チリパウダー小1、塩こしょう小1.5、その他にコリアンダーなど好みのスパイスをいれたものを混ぜ、最後にオリーブオイル大2を入れてさらにまぜる)
☆ドレッシング (無脂肪のプレーンヨーグルト: 100g、 マヨネーズまたはベジネーズ: 100g、 クミン小1、カイエンペッパー小1/2、乾燥ディル小1.5、はちみつ小2、ライムの絞り汁1個ぶん、塩こしょう適宜、タバスコ適宜をまぜる)

①白身魚はキッチンペーパーで水分をとり、大きめのそぎ切りに。ぜんぶで12枚くらいになるように。
②マリネードの材料をあわせ、ジップロックにいれた魚にかけて空気を抜いて口を閉じたら6時間ほど置く。
③レタスは千切りにし、玉ねぎはごくごく薄い薄切りに。玉ねぎは冷水に5分ほどさらして辛みをぬき、しっかりと水気をとる。
④フライパンを熱し、トルティーヤを一枚ずつ焼いていく。とはいえ、市販のものはもう焼けいているので、温める程度。片面1分ずつ程度。テフロンなら油はいらないけれど、想でない場合はクッキングスプレー(スプレー缶に入ったオイル)を軽くふきかける。
⑤フライパンを熱し、マリネ液をよくきった魚を片面ずつ焼いていく。ほぐれやすい魚なので、こわれないように気をつける。そぎ切りにしているので火の通りは早い。蓋をして片面2分ほどで焼ける。
⑥トルティーヤに一枚ずつ、レタスの千切り、玉ねぎの薄切りを好みの量のせて、その上に白身魚ふたきれずつとマンゴーサルサを乗せ、最後にヨーグルトドレッシングをかける。全ての材料をテーブルに並べて、ひとりずつ食べるたびに自分で作った方がおいしいです。写真のものはさらにguacamoleというアボカドのディップ(アボカド二つをつぶし、そこに玉ねぎのみじん切り1/2個、トマトのみじん切り1/2個、チリのみじん切り1個をいれてライムの絞り汁1個分と塩こしょうで調味したもの)を合せていますが、これはなくても十分ボリュームがあります。

言うまでもなくプールサイドでのグレーディングはさしてはかどらず、アラサー女子はだらだらと子育てやら研究やらについて話しながらビールを片手にのんべんだらりと束の間の休みを過ごしたのだけれど、個人的に今回とてもよかったのはAの3歳になる娘とたくさん遊べたこと。これまで子供にはなんだか苦手意識があったのだけれど、写真のセクシーな三歳児はなぜかわたしをいたく気に入ってくれて、BeyonceのSingle Ladiesをわたしだけのためにといって踊りまくり、果てはわたしがグレーディングをしている膝の上で眠りこけてしまった。いますぐというわけにはいかなくても、こどもがいる人生というのもいいんじゃないかな、などとオレオで口の周りを黒くしながら寝息をたてる子供をひょいと肩に担いで家の中に連れて行くお母さんのAを見て思った夕暮れだった。ついでに、決意の大人黒ビキニは女子連に大好評だったのだが、「アジア人とは思えないケツ」「貧乳をおぎなってあまりあるケツ」「太平洋を超えたケツ」となぜか尻ばかりに対して惜しみない賛辞をもらった。ええ、なんと言われようとあと五年はビキニを着られるようにがんばります。

2012年4月7日土曜日

アメリカ南部でアメリカ文学を教えるということ (2)

そんなわけで教師として振る舞うということに関してはさほど意識的にならずに済む環境がすでになぜか最初のクラスでは整いすぎるほどに整っていたのだけれど、それでもちろん話は終わりではない。

Louisianaに留学することを初めに奨学金を出してくれるひとびとに告げた時、Deep Southに行く心の準備はあるのですか、と問われたことを、一年目はよく思い出して、あれは西海岸や東海岸の都市部に居住した経験のあるひとたちが、南部を時代に取り残された他者として思い描いていたにすぎないのかもしれないな、と思っていた。けれど大学街に住み人文系の大学院にいるということは、当然にリベラルな思想の人々に囲まれるということなわけで、深南部に生活してそこここに南部の文化を目にしても、それはまだ南部の一部しか見ていない事だったのだ、と気づいたのも、ティーチングを始めてからのことだった。

もちろん21世紀も10年あまりを過ぎた今日、深南部とはいえおおっぴらに人種差別が横行しているわけではない。学生達は当然に中学高校と、痛いほどにpolitically correctであることとはなにかを学んできている。けれどもあの、南部の政治的文化的保守性という、教科書的な言葉が衝撃をともなって実感される瞬間というのはまぎれもなくあって、そういう時にはブンガクを教える意味、という、いかにも大時代的なテーマが頭をよぎる。それはたとえばNella LarsenのQuicksandという作品を教えた時に、生徒が無邪気に、でもこの主人公の黒人の女の子は、どこのコミュニティにいっても文句を言うばかりで共感できないです、最初に牧師がこの女の子に言ったとおりに、自分が黒人の血を引く存在であることを素直に受け容れて、黒人共同体にいることに満足をすればよかったのに、と言う時であり、たとえば生徒達が口を揃えて、個人の努力と考え方次第で人生というのはなんとかなるのだから、人生に満足できないのは、その個人の責任だと思う、という時である。

なんども、もうなんども書いてきたことではあるけれど、日本にいる時には無自覚にpolitically correctであること、人種的階級的弱者の口を借りて彼らの権利を声高に語ることに対する嫌悪感を覚えていたし、政治で文学が読めるのか、といらだつことも多かった。けれど、こちらに来て文字通り痛感したのは、そうやってある種の文学の政治性をないがしろにできるのは、多くの場合、自分があらゆる特権を知らぬ間にまとってきていたからだったのだと思う。個人の意識で人生がすべてうまくいくのならば、公民権運動もgay marriageの権利獲得運動も、必要はない。けれどそうではないから、個人というのは社会や国家にどんな形であれ包摂された存在であるからこそ、権利獲得のために集団的な運動が必要になる時というのは必ずある。けれどEmersonの個人主義を高らかに歌い上げるエッセイを読んで、これこそがわたしのルーツだと思った、と、そのエッセイが究極的な個人主義の国家にあってコミュニティとはなにかという問題を投げかけていることには気づかずに輝くような笑顔で言う生徒たちを目の前にすると、一瞬、水風船でも顔に投げつけられたかのように、衝撃をうけ、そしてひるみ、この州が極右のSantorumが圧勝する地であることを思い出す。

文学というのは、お金もうまないし、テクノロジーもうまないし、社会のなんの役にもたたないんじゃないの、というのは、文学に携わる人間が、誰に実際に言われるわけでもなくてもほとんどニューロティックに(程度の差はあるとしてもすくなくとも頭の片隅で人生に一度は)問う問題だと思うし、その問いにこうやって飛びついて、いや、文学を教えることにはこんなに意味があるんだ、と安易に答えを出すのには抵抗があるのだけれど、それでもいざ彼らを目の前に、自分がなにがしかのことを言うことができる立場にいることは、心からありがたいことだと思う。わかっているのは、この学生達はそれぞれに真摯に自分の人生を生きてきている、ということであり、人種的にも文化的にも圧倒的に他者であるわたしが、自分の他者性を振りかざして、あなたたち強者は弱者の痛みをわかっていない、と言う事は、どう考えても間違っているということだ。南部に生まれ育ち、その中には、ひいおじいちゃんが南軍で戦ったという子達もいて、自分の生まれ故郷が西海岸、東海岸のリベラルな(そしてマスメディア的には強者である)文化からbackwardな田舎として扱われていることもおそらくは肌身で知っている生徒達に、ただあなたたちは白人だから強いんだ、と舌のもつれる英語でかきくどくのは、どうにも卑怯なことだと思う。けれども、自分に教師という立場が与えられていて、自分がどうみても彼らとは違うバックグラウンドから来ていて、だからこそある種の興味をもってもらえる存在だからこそ、言っておかなければいけないことというのはきっとあるのだとも思う。わたしたちが今学期読んできた小説の主人公達はみんなどこか壊れていて、彼らの選択はどう考えても理解できないことが多々あります、だけど、けっきょく文学を読むっていうことの醍醐味のひとつは、理解できない人間を理解しようとする練習をすることだと思うのです、とはいっても結局は理解できない人ばっかりです、でも、理解ができないときに、この人たちは間違っていると一刀両断に切り捨てる時には、たいていの場合自分がなにか彼らにないなんらかの力を持っているときだと思っていいと思います、それがみなさんよりたった10年ばかりだけれども長く生きてわたしが学んだ事です。それがわたしが最初の学期の最後の授業に笑顔で言えたことであり、臆面もなく自分の道徳をそうして言葉にしたことは、教師一年目だからこその恥はかきすてだったにしても、とりあえずのところはよしとしている。

[Collard Greens with Bacon のレシピ]
久しぶりに書きながら脇汗をかいた恥ずかしいエントリーだったのだけれど、Louisianaという土地を上辺だけではなく、もう少し知る事ができる機会が得られた事はうれしかったので、久々にLouisiana風の料理のレシピを。カラードグリーンというのは左のような菜っ葉で、お店で見かけてもなんか固そうだなぁと(実際ほんとに固い)思って敬遠してきた野菜だったのだけれど、先日南部料理のお店でベーコンと煮たものを食べたらこれがとってもおいしかったので自分でも作ってみた。話はややずれるがKey and Peeleというこちらで人気の黒人のコメディアンのコンビがいるのだけど、彼らの冠番組でふたりの黒人ビジネスマンがHarlemのレストランでどちらが黒人らしいかを競うためにいろいろソウルフードを頼みまくり、ヒートアップしたあげくに最終的には「人足を揚げたものに豆の煮たのををかけてください」という、みたいな、まぁ文字に起こすとアメリカ人の笑いのつぼってなんだろうというようなコントがあり(実際にはビジネスマンである二人が自分が黒人性から離れていることに異様な罪悪感を感じている設定がけっこう効いていて笑った)、その中でももちろん初めに出てくるくらいカラードグリーンはソウルフードの代名詞みたいなものなわけだが、Louisiana風はやっぱりいつものごとくホットソースを効かせたのが特徴です。

☆collard greens ひとたば
☆ベーコン 三枚
☆玉ねぎ ひとつ
☆にんにく ひとかけ
☆お酢(いつものごとくわたしはすし酢なんですが)50cc
☆ブロス 500cc
☆ホットソース(タバスコ)10ふりくらい

①玉ねぎ、にんにくはみじんぎり。ベーコンは1cmくらい。カラードグリーンはまんなかの固い茎を切り取り、くるくると丸めて太めの千切りにする。
②フライパンでゆっくりとベーコンを熱する。脂を溶かすように。
③脂がしっかり出たら、にんにくと玉ねぎをいれて、これもゆっくり炒める。きっちり色づくまで。
④カラードグリーンを投入。最初はかなりかさがあるけれど、炒めているとしんなりしてくる。
⑤お酢を入れて、水分を軽く飛ばす。(みりんをすこしいれてもおいしい)
⑥ブロスを入れて、ふたをして1時間、ほぼ水分がなくなるまで。
⑦仕上げにタバスコをふって、よく混ぜる。ベーコンとブロスの塩気によるけれど、塩味がたりなければ塩こしょうで調味。


Great Gatsbyというのはあまりにもよく出来すぎていて、あまり好きな小説ではなかったのだけれど、教えるためにもう一度よんだらやっぱりよく出来すぎているよ、と思いつつ、最初のページのNickの父親の言葉に—そのアイロニーも含め—力強く線をひかざるを得なかった。"'Whenever you feel like criticizing someone,' he told me, 'just remember that all the people in this world haven't had the advantages you've had." 文学を教えるということは、こういう言葉に素朴にもういちど生徒と一緒に打たれることなのかもしれないな、などと思う。アメリカでアメリカ文学をアメリカ人に教えるというのは、間違いなくわたしの(いってみればお気楽な)人生の中で一番くらいにチャレンジングな経験であるわけだけれど、同時に一番くらいにやってみてよかった経験でもある。先学期の生徒たちからの評価アンケート、うれしくて泣きながら読みました。だからこの山積みのレポートも、なんだかんだ仲間と愚痴をいいながら、笑顔が隠しきれずにまた採点するのだと思う。

アメリカ南部でアメリカ文学を教えるということ (1)

Easterを目前にしてLSUはようやく他の多くの大学からおよそ三週間ほど遅れてSpring Breakに入ったわけだけれど、10日間の春休みは休みとは名ばかりで、大学院生にとってはひらすらお仕事の期間である。コースワークの間は授業のファイナルペーパーのドラフトの締め切りがたいてい休みの後に設定されているのでペーパーライティングで虫の息となるのが定番なのだけれど、今年はそれに加えてわたしの目の前にいま、30本のペーパーが積まれている。そう、今年からはわたしも先生として生徒のレポートのグレーディングをしなければいけないのだ。

アメリカの大学院では(学校や学部によっていろいろ条件は異なるのだけれど)大学院生が実際に学部生を教えることが半ば義務化されている。たいていの場合、Teaching Assistantshipというのを受けると、授業料が免除になったうえにお給料として生活費(ええ最低限のですけれど)が大学から支払われる。Teaching loadは大学によってまちまちなのだが、LSUの英文科では大学院生は(PhD、MFAともに)一学期に一コマ(三時間:週に一時間を三回ないし一時間半を二回)担当すればよいことになっている。英文科の学生はたいてい30人くらいのcompositionのクラス(日本で言うところの小論文なのかな)を持たされるのだけれど、わたしは去年一年はよそからお金をいただいていたので教えることはなく、今年一年ははじめてのteachingだからということで、教授の教える150人のアメリカ文学のクラスのTAをしており、週に二度は教授のレクチャーの補助、実際に生徒を目の前にして教えるのは週に一度だけで済んでいる。

週に一度だけ。週に一度、ただ一時間だけなのだ。しかしこれだけ濃密な一時間をわたしはこれまでの人生で他に知らない。もともとわたしは英語が流暢に話せるわけでもなんでもない。こちらに来て一年を経た頃には、一対一のコミュニケーションや授業でのディスカッションは形ばかりだとしてもなんとかこなせるようになってはいたのだけれど、ひとクラスのアメリカ人を目の前にアメリカ文学について英語で話し、生徒にディスカッションをさせるというのは、話が別である。個人的な会話やディスカッションでは、多少言葉がみつからないことがあろうが、話しながら英語の森に迷って出てこられなくなろうが、結局のところアイディアがおもしろければ拾ってもらえるし、ああ外国人なのにがんばっているね、と最終的にはあたたかい目で見守ってきてもらっていた。けれど教師であるということは、コミュニケーションの責任を負うことであり、それまで享受してきた社会的弱者としての特権に対する甘えが許されないということでもある。障害物競争のハードルが一気に背面跳びのバーに変わったようなものだ。

去年の8月、初めて教壇に立った日のあの戦慄は今でもけして忘れることができない。アジアから来たとおぼしき妙な英語を話すこのひとが、ああ、先生なのか、と思ってきょとんとしている30人の学部生を前に、満面の笑顔でかみしめるように自己紹介をしながら、9cmヒールのパンプスに脇の下から一滴、また一滴と汗がしたたり落ちるのをなんの誇張でもなくわたしははっきりと感じていた。アメリカの学生というのは隙あらば教師にクレームをつけて成績をあげさせようとする、というのがティーチングのトレーニングで言われた事のひとつでもあったので、とにかくなめられてはならない、教師としての立場は死守しなければならないと身を固くしていたのが最初の数週間だった。が、驚くほどにその緊張は杞憂に終わった。アメリカの学生—というかこれはおそらく保守的な南部特有のことなのかもしれないが—は教壇に立っている存在はすべからく敬うべしという教育を施されているのか、なんというか日本でわたしが見ていた(自分を含め)すれっからした学生とはだいぶ違い、なんとも素直にわたしの話をうんうんとうなずきながら聞き、なにか訊ねれば口早にYes Ma'amと言ってから答え、ディスカッションでは矢継ぎ早に手を上げて発言する。まるで軍隊さながらではないか。

2012年3月18日日曜日

St. Patrick's Day




こちらに来る前にはリースというのはクリスマスの為に飾るものだと思っていたのだけれど、アメリカの玄関というのは年がら年中ではないにしろ、けっこう驚くほどの頻度でwreathで飾られている。1月中頃、ホリデイシーズンを過ぎてもまだあちこちの家の玄関先に色とりどりのリースが掛かっているので、ああこりゃ松飾りを外し忘れたようなもんなのかな、いかんいかん、福を逃がしますよ、と思っていたら、PJがよくリースの色を見てご覧なさい、と言う。紫、金、緑。あ、これはMardi Grasカラーじゃないか。ルイジアナではクリスマスとニューイヤーを過ぎると人々はMardi Grasの準備に忙しい。玄関先も当然Mardi Gras用のリースで飾らなければ気が済まないのだ。さてMardi Grasも終わって、じゃあいよいよリースを外す頃かしら、と思ったら、今度は家々の玄関先が明るい緑のリースで飾られてる。リースは元気に育った庭いっぱいのクローバーとともに南部の光に照り映えて、そう、三月のお祭り、St. Patrick's Dayの準備が始まっているのである。

3月17日にはアメリカ中の多くの大都市でパレードが行われているはずなのだけれど、実は普通南部の中小都市ではSt. Patrick's Dayはそこまでメジャーなお祭りではない。が、Baton RougeではMardi Grasの時と同様、爆音のダンスミュージックとともにフロートによるパレードが二時間も三時間も続く。なぜフランス・スペイン系の影響の強いルイジアナでこのアイルランド系のお祭りがこうも盛大に行われるかというと(ちなみにアイルランド系移民はBoston や New Yorkを初めとする東海岸に多い)、それはこのお祭りがカソリック由来のものだからなのである。Mardi Grasの時にも書いたけれど、ルイジアナはプロテスタント色の濃い南部で唯一ともいえるカソリック州。これがカソリックの特徴だと一般化するわけではけしてないけれど、わたしがこの地で触れたカソリックというのは、教義・典礼的には大変厳しいのだがそれを相殺するかのごとくひとびとの日々の生活は(とりわけプロテスタントのそれに比べ)めっぽう享楽的でかつ情熱的なのである(…やっぱりでもこれってカソリック全般に言えることなのではないかという疑いが頭をよぎるのは同じカソリック系の中南米およびイタリアの人々の性的おおらかさによるのだが)。St. Patrick's DayはMardi Grasの翌日のAsh Wednesdayから始まり四月の謝肉祭までの節制の日々、レントにあって唯一飲めや歌えやが公に許される日とあって、人々はまたこれでもかというほどに乱れ狂う(ちなみにそれなりにレントにまじめに取り組んでいる人たちもいるのだなと感じたのはAsh Wednesdayのその日、キャンパスを歩いていたら、いかにもソロリティの女の子らしいブロンドちゃんがiPhoneを片手に激怒していて、いったいどうしたのかと耳をそばだてたら、Ash Wednesdayに肉を食べるなんてほんとに信じらんない、わたしたちの関係を考え直したいわ、などと言っていたときだったのだが、まぁ実際、大抵のひとはほとんどレントなど気にしていなさそうだ。要は単に騒ぎたいんです)。

おそらくこれはMardi Grasを擁するルイジアナならではの現象なのだが、あいかわらずパレードではフロートの上の人々が緑色のビーズの雨を降らせる。ビーズだけではなく、ビール用の緑のコップや上の写真のようなパンツ、leprechaunと呼ばれるアイルランド民話に出てくるキャラクターをかたどった奇妙なマスコットなどが雨霰のごとく降ってくる。その中に身の丈60cmほどの兎のぬいぐるみがあり、これはパレードで約10体しかないというラッキーアイテムなのだけれど、ありがたいことにパレード最前列で友達と踊っていたらなぜかおじいちゃんがフロートから身を乗り出してわたしに手渡してくれたので、1歳の娘のいる友人にプレゼントした。パレードが終わる頃には左の写真のように緑のビーズで身動きがとれなくなり、周りのひとに手伝ってもらわないと抜けない始末であった。

論文採用のお祝いにとパレードルートの周りに住んでいるルイジアナネイティブの友人が大きな鉄鍋でジャンバラヤを作ってくれたので、みんなで乾杯した。が、パーティが始まって一時間も立つ頃にはみんなぐでんぐでん(なにしろアイルランドのお祭りだからということで半端ではない強さのお酒が振る舞われる。もちろんわたしは相変わらずビール一杯くらいしか飲めないので事なきを得たが、)で、気づけばホストである友人は数人の女子とベッドルームに消え、ありがとうを言ってPJと家路につこうと思ったら、ベッドルームの前までいったPJが、あ。これは。入っちゃだめだわ、すごいことになってる。と言っていたので、中で何が行われているかは恐ろしくてのぞけなかった。どんだけだい、と思いながらPJ宅まで歩いているとそこかしこでパーティミュージックの中、パトカーの音がこだましていた。全て真っ昼間に行われているのだからほんと、どんだけだよルイジアナ。

[Pistachio Cookiesのレシピ]
そんなわけでわたしもなにかパーティに緑色のものを持って行こうと、今回はピスタチオをベースにしたお菓子を二種類焼いてみた。いつものごとくタルト生地を余らせていたので、ひとつはピスタチオのタルト、それからもう一つはPJのお母さんのレシピによるピスタチオのクッキーである。実はタルトの方もお母さんレシピに想を得て、いつものアーモンドクリームにフードプロセッサーで粉にしたピスタチオとフェンネルシード、アーモンドエッセンスを混ぜただけなので、今回はクッキーのレシピだけ(タルトは写真のようにSt. Patrick's Dayのエンブレムであるshamrockをかたどって粉砂糖でデコレーションしてみた。四葉のほうが縁起がよかろうと思ったが実際にはクローバーの三つ葉がholy trinityを象徴しているそうなので、三つ葉が基本だそうです。ふむふむ。切るときれいな緑色です)。アメリカレシピだけにその大量のバターと砂糖の量に腰が引ける方もおられるかとは思いますが、大量に焼けるので日に1枚、2枚食べる分には問題はないはずです。お味のほうは太鼓判。ほんとうにおいしかったです。

☆発酵バター 250g
☆砂糖 250g
☆小麦粉 250g
☆ベーキングパウダー 小1
☆塩 小1/2
☆ピスタチオ 100g
☆たまご 1つ
☆アーモンドエッセンス 小2
☆ライムの皮をおろしたもの ライムひとつぶん
☆フェンネルシード 小2

①ピスタチオは飾り用少々を残してフードプロセッサーで細かい粉にする。
②オーブンは180℃に余熱。
③バターを室温に戻し、電動泡立て器でクリーム状にする。
④砂糖を③にまぜこみ、さらに電動泡立て器で滑らかなクリームになるまでまぜる。
⑤卵を4度にわけて④に加える。そのたびに電動泡立て器を使うこと。分離しないように。
⑥アーモンドエッセンス、ライムの皮、フェンネルシードをゴムベラで混ぜる。
⑦⑥に塩、小麦粉、ベーキングパウダーをふるいいれ、ゴムベラで粉っぽさがなくなるまでまぜる。
⑧ピスタチオの粉もさっくりとまぜこむ。
⑨天板にオーブンシートをしき、生地を2cmくらいのボールにしてのせ、手のひらで抑えて平たくする。飾りのピスタチオを乗せる。焼き上がると生地が広がるので生地と生地の間を最低1cmは空けること。わたしはこの分量で直系5cmくらいのクッキーが40枚強焼けたので、一度に天板に全てに乗せるのではなく、3, 4回にわけて焼く。
⑪10分くらい焼いて、うっすらと焼き色がついたらオーブンからだしてオーブンシートごとクッキークーラーにうつし、粗熱をとったら召し上がれ。しかし個人的には冷蔵庫で冷やしてからの方がフェンネルシードやピスタチオの香りがたっておいしかったです。

あいかわらずセブンティーズなルイジアナの人々はお祭りになると外でにこにこと煙草代わりにポットをたしなむのですが(違法なはずなんだけどなぁ…)、大麻というのは味覚をふくめいろんな感覚を強めるそうで、近所のおじさんやおばさんもわたしのクッキーとタルトを食べながら、ああおいしい、こんなにおいしいお菓子ははじめて!と言ってくれたので、どうかルイジアナの民の快楽に貪欲な罪深さを許してくださいと、抜けるような青空にお祈りした。

2012年2月22日水曜日

Rochester, Minnesota (2)

さて話がRochester自体からはやや逸れたが、PJの両親がすむこの街は、Minneapolisから車で1時間半ほどのところにある。小さな街だからそんなに観光するところはないんだよ、とPJは言っていたが、やはり行ってみるとわたしにとっては興味深いことが山ほどある。なにしろ考えてみれば北部はNew Yorkにしか行ったことがなかったし、New Yorkはアメリカ北部の街というよりはコスモポリタンな都市なので、どちらかといえば北部の他の都市よりも東京とのほうが共通点が多かったりするわけで、RochesterはNew Yorkではおよそ見られない北部の(というか中西部の)典型的な郊外の街並を味わうことができた。

Rochesterという街はMayo Clinicという名の病院とそれを中心とした医療産業で成っている。Mayo Clinicは入院、手術というよりは主に先端治療法の開発及び各患者に対する新たな治療法の提案を行う全米屈指のNPO医療団体なのだが、もともとは南北戦争後の1863年にWilliam Worral Mayoという医師がその二人の息子とともに起こした小さな病院だったそうだ。年を経るにつれその先進的な医療技術に注目が集まり、1928年には左の写真(Plumber Buildingというのだが)のような大きな建物で治療が行われるようになった。この建物は現在でもMayo関係の医療カンファレンスや研究が行われているのだが、その内部の美しさは病院とは思えないほどである。現在ではPlumber Buildingのすぐ横により現代的なビル(前の投稿の一番最初の写真は二つの建物が両方写っている)が建てられていて、そこにはアメリカ全土および世界各国から治療困難な難病指定を受けた患者達が新たな治療法を求めてやってくる。

Mayo Clinicの街の中心たる所以は、それが地域のコミュニティを形成しているところにある。Mayoは地域住民からボランティアを募り、患者と病院のコミュニケーションの潤滑化を図っているようで、PJのお母さんも週日はボランティアとしてMayoにいる。Mayoは医療私設の人間化とでもいうのか、医療を日常から乖離したプロフェッショナルで怜悧な空間にしないことを旨としているようで、一見ホテルのような建物内(聖路加とかそういう病院にも通じるものがあるのだけど)には無数の美術品が(ほとんど無造作に)置かれている。元美術教師だったお母さんの仕事はこの作品達を説明するツアーをすることなのだが、おもしろいことに多くの作品はMayoで治療を受けた患者の家族ないし知人からの贈呈品なのだった。左のシャンデリアはホールに飾られたDale Chihulyというアーティストの作品なのだが、ひとつひとつ自らの息で膨らませたというガラスの集積は館内の光を集めて温かく輝いていた。他にも小児科には元科学の先生のおじいちゃんがいて、子供達に本を読み聞かせたり科学の実験をやってみせたりしていてこれもまた見ていて和んだ。加えてMayoを中心とするRochesterの街は実は2km四方くらいに渡って建物同士がSkywayとよばれる空中回廊と地下通路によって結ばれているので、地方から来た患者はホテルから冬の外気に触れることなく病院まで行くことができる。小さな街だからこそ実現できることなのかもしれないが、妙にしみじみと感じいって、近くのBarns and Noblesで医食同源を唱導するMayoの料理本まで買ってしまった。

たった三日の滞在ではあったが、PJの両親はなにからなにまで気を使ってくれて、クリスマスツリーの下にはAvedaのヘアケアセットをわたしのプレゼントとして用意してくれていたり、お手製のフルコース料理をふるまってくれたり、MinneapolisのMinneapolis Institute of ArtでEdo Popと題された浮世絵の展覧会に連れて行ってくれたり、北部にありながらほんとうにほっこりとした旅だった。正直に言うと、南部の人々の開けっぴろげな愛情表現(とりあえず常に両手でハグ、とりあえず常に笑顔、とりあえず常に大声)に慣れていたわたしは、最初は北部の人たちの穏やかさや落ち着きに少し戸惑いはしたのだけれど、別れ際、いつも川を見るたびにあなたのことを思い出すよ、Missisippi Riverの上流と下流でいつも繋がっているんだよ、と言ってくれたふたりの優しさは忘れ難い。先日PJのお母さんからおいしいクッキーのレシピが届いたので近々試してみるつもり。

Rochester, Minnesota (1)

話は前後するが、12月の末にPJの両親の住むMinnesotaのRochesterという街を訪れた。

"Meet the parents"というイベントがなにやらいわくいいがたいのは万国共通のようで、いかに普段はカジュアルなアメリカ人たちもこんなサイトがあるくらいにはそれなりに恋人の両親に会うのは気を使うらしい。なんだかんだこれまで付き合った人々のご家族(と書いていま気づいたのだが「ご両親」がいるボーイフレンドというのは初めてなんだな)とは割に密なお付き合いをさせてもらってきたのでこういうシチュエーションには比較的慣れているとはいえ、しかし相手が外国人となるといまひとつ距離の取り方がわからないのでなんだかふわふわと落ち着かないまま、とりあえず茶菓子を焼いて詰めた小箱を片手にMinnesotaに飛んだ。

なにしろ寒いのが嫌いで南の大学ばかりアプライしたわたしが冬にド北部に行くことになるというのはなんとも皮肉で、旅の前は連日Minnesotaの天気をチェックしては、おいおいこんな寒いとこ行くのかよ、と12月に入ってなお半袖の南部で肝を冷やしていた。なにしろMinneapolisでは昨年、フットボールスタジアムの屋根(東京ドームみたいな形の)が雪の重みで落ちたという。1月には零下20℃にもなるというその寒さは東京人の想像の及ぶところではない。ありったけの冬物下着をスーツケースに詰め込み、降り立ったMinneapolisの空港はしかし、そこまでの寒さではなかった。もちろん零下は零下なのだが、零度を下回ると大気中の水分が凍って身体に沁みなくなるので湿気のある4℃の空気よりもよほど温かく感じる、というPJの再三の説明のとおり、寒風吹きつさぶ南北線東大前駅の死にたくなるような寒さに比べればよほどに過ごしよい。拍子抜けしていると迎えにきてくれた満面の笑顔のPJの両親が、ほんとに最近はあったかくてルイジアナから来たふたりを迎えるのにはちょうどよかった、まったくスプリングブレイクみたいな天気だ、と言う。いやもしもし、滝、凍ってますけど、という喉まで出かけた言葉は無事飲み込んだ。

アメリカを旅行するたびにおもしろいなぁと思うもののひとつは人口分布だ。例えば再三繰り返しているが南部は白人と黒人がだいたい半々でその他の人種(アジア、アラブ、ユダヤ、ラテン系など)が極端に少ない。ルイジアナはフランス・スペイン系移民の影響が大きいため南部の中ではわりに特殊な多民族文化を形成しているのだが、南部の多くの州はわりにいわゆるWASP的な白人文化がやはり際立って優勢で、例えば女の子はBritney SpearsとかJessica Simpson(ブリはミシシッピ、ジェシカはテキサス出身とふたりとも南部娘なんですね)みたいな、え、それほんとにブロンド?染めてるの?というような黄味がかって根元が黒いブロンドに、なんかこう「くわっ」とした見るものを取って食うかのような顔(いやもちろんかわいいんですけど、お化粧のせいなのかなぁ、なんかむやみに激しいんだよなぁ)を理想とするようなタイプが多い。New YorkやLos Angelesにいくとこういうメディア的にクラッシックなアメリカ娘というのは実は少なくて、意外にブルネット率が高いし、もちろんいわゆる「その他」の人種との混交が如実に見られる。さてそれではMinnesotaはどうでしょう、というとこれもまたとってもブロンド率が高いのだが、この土地の場合南部のようないわゆるアメリカ的「白さ」ではなくいわゆるプラチナブロンドに近い白さなのである。同じ白人でもやっぱり違うもんだがなんでなんだろう、と思ったら、Minnesotaは昔から北欧からの移民が多いから、とのこと。どうりで街にはMarimekkoとかAlessiとかNordic Wareとか(すいません料理系のブランドくらいしかわからなくて)南部ではおよそ目にしない北欧系のメーカーが軒を連ねている。

アメリカ文学では90年代くらいからWhiteness Studyというのが(それなりにではあるが)起こっていて、白人というカテゴリーを人種のマーカーのないブランクカテゴリーとしてではなくWhitenessによってマークされた人種として研究しようというような試みがあるのだけど、十把一絡げに白人といってもいろいろあるんだなぁといまさらながら実感するのはこういう時である。PJのお母さんの家族はやはりデンマーク系移民で、古くからMinnesotaに住んでいるため、PJのお父さんとお母さんはドイツでの仕事を終えてからはふたりでここに住んでいる。PJなんてわたしから見たらメジャーリーグ見ながらビールの大ジョッキを抱えていそうなくらい(実は本人はそんなに野球に興味ないんですが)アメリカ白人そのものに見えるのだが、実際は自分のことを「白人」とカテゴライズするのに抵抗があるようである。というのも、デンマーク系で4世代に渡ってアメリカに住んでいるお母さんに対し、PJのお父さんは第2世代ギリシャ系移民で、そのお父さんは英語を話すことがなかったというのだが、ギリシャ系というのはイタリア系同様、20世紀初頭まで「白人」とは見なされていなかったため、お父さんとお母さんの1950年代の結婚とPJの誕生はお母さん方の親戚にそれなりの波紋を呼んだらしい。なるほど親戚の集まりにいってみると、皆が皆いわゆる「透けるように白い」肌にほとんど白髪のようなブロンドである。その中でPJは自分とお父さんだけは「オリーブ色だ」と言う(…が、繰り返すようだがやはり人種的圧倒的他者のわたしからみると、いやいやあんたたち白いよ、という感じなのだが、こういうグループ内の差異というのはやはり部外者にはわかりにくいものなのだ)。

2012年2月21日火曜日

Mardi Gras

なにがどうなってこうなったのだか我ながらため息とともに呆れるほかないのだが前のエントリーから半年以上が過ぎていた。

ロスから日本に帰って三週間の滞在の後にはBaton Rouge、また一週間後にPJのいるNew MexicoのAlbuquerqueとSanta Fe (そうです宮沢りえのです)に二週間ほど行き、Baton Rougeに戻ったころにはわたしの夏休みは怒濤のようにすぎていて、気づけば始まっていた秋学期は初めてのティーチングやらHoustonでの学会発表やらに戸惑いながらもなんとか無事に終わり、ようやく迎えた冬休みにはPJの家族に会いにMinnesotaに行き、そしてその一週間後には両親がBCS Championship game当日の狂乱のNew Orleansにやってきて、息つく間もなくまた春学期が始まり、なんだかんだでかれこれ一ヶ月がたつ。どこかへ行けばああこれはほんとうにおもしろいから記録しておきたいと思いつつ元来の筆無精をのさばらせた半年間だったわけだが、しかしついにそれを打ち破る破壊力を持っていたのがMardi Grasである。

プロテスタントの多い南部(通称バイブルベルト)にあって、スペインとフランス統治の長かったLouisianaはほぼ唯一カソリック文化がいまだに根強い州であるわけだが、Mardi Gras はフランス系移民のカソリック達が大陸からもちこんだカーニバルである。罪深い日々を清めるためのLent (四旬節)が始まるAsh Wednesdayと呼ばれる水曜日の直前の火曜日をMardi Gras (肥沃な火曜日、Fat Tuesday)と呼び、翌日から始まる節制の日々を目の前に飲めや歌えやの大騒ぎをしようというのがコンセプトのこの日は、New OrleansはもちろんLouisiana中が祝日となる(もちろん学校もお休みである)。しかしそもそも、明日から悔い改めの日々がはじまるからどんちゃんしちゃおうぜ、というのはとてもある種カソリック的(正統カソリックではないにしろ)で、ルイジアナ出身の友人によればNew Orleansという街の南部の中では例外的に享楽的な性格というのはカソリックの告解の慣習—ひらたくいえば「懺悔すれば許される」という信念—によって説明される、ということなのだが、いやはやほんとにNew OrleansのMardi Grasというのはありとある俗世の穢れをとりあえず具身化したようなカーニバルなのだ。

マルディグラの中心はKreweとよばれるグループが行うパレードである。上の写真のようなfloatと呼ばれる山車に乗った人々が節分の豆のごとく左の"beads"と呼ばれるネックレスを通りの人々に向かって投げる、と言ってしまえばそれまでなのだが、このbeadsを獲得するために人々は荒れ狂う。山車に乗った人々から目につきやすいように思い思いのペインティングを顔にほどこし、マルディグラカラーである紫、金、緑の衣装を身にまとい、仮面をつけ、叫び、手を振り、踊り、果ては乳を出す (マルディグラ女子に興味を持たれた方はこちらこちらの写真をどうぞ)。各パレードはだいたい1時間半くらいなのだが、マルディグラのすごいところはFat Tuesdayその日だけでなく、やくひと月前から毎週末にこの手のパレードが行われ、いよいよその日が近づくと日に5回ほど異なるKreweによるパレードが行われるので、狂乱は丸一日続く。もちろんNew Orleansは全米でも数少ない路上飲酒が許される街なのでとりあえず人々は酒の瓶を小脇に抱え、これでもかとディープフライされたチキンやらPo' Boyやらを齧り時には木陰で嘔吐しながらそれでもまだbeadsを乞う。

正直、実際にMardi Grasに行くまではおいおいたかがプラスチックだろうよ、くらいに思っていたわけだが、カーニバルの空気というのは想像を絶して個人の意識の奥底をかき回すわけで、当然のごとくわたしも一日中beadsを乞うた。理由も糞もなく実際には欲しくもないなにかを心から求めて声を上げるというのは本当に不思議なものだ。なんというか心理的に興味深いのは、自分に向かってbeadsを投げてくれ、と涙ながらに乞いに乞うその行為自体が、その馬鹿馬鹿しさもあって妙に人を開放的にするというか、まったく役にもたたないただのbeadsを心から欲望して声をあげる、その欲望の純度の高さは日常ではおよそ経験されえないがゆえに非常に貴重である。自分のためにBeadsを投げてくれたKreweのメンバーには必ずお礼のジェスチャーをするというのがルールらしいのだが、繰り返すようだがなんの役にも立たないビーズをもらってそれを後生大事に胸にかき抱き、殿上人のように高みから群衆を見下ろす存在にありがとうと訴えるという行為のabsurdさというのは物凄い。

しかし同時にパレードを見ていてわたしのなかのPolitically Correctnessが抑えきれない野暮な瞬間というのはどうしてもあった。パレードのなか、各フロートを先導するマーチングバンドとダンサー達の90%以上は黒人、フロートに乗ってビーズを投げる人々の90%以上は白人なのを目にすると、カーニバルとは日常のオーダーの転覆である、などとは言うが当たり前にこの果てしない蕩尽のために必要な金を持つものと持たざるものの境界は覆りはしないわけで、こうやってカーニバルによる擬制的ガス抜きによってやはりシステムっていうのは保持されるわけですかね、などと思いもしなくはなかった。Kreweのメンバーになるためには(Kreweの規模や性質にもよるが)通常最低でも$4,000くらいの年会費が必要だったりするそうで(ちなみに各KreweはBallというダンスパーティのようなものをパレードの前に行う。これは盛装が基本で、Tableau vivantなんかもあるほんとに19世紀的な会なのである)、人種差別というものがこれだけ公にはNGになり、加えてNew Orleansのように歴史的に黒人文化がかくもあでやかに華開いている街でも、人種の壁が経済的な壁に置き換わってはっきりとした線引きが目に見えるというのには妙にしんみりした。

というわけで半年ぶりのあたいの夏休みだったわけだが、やはり訪れるたび思うのは、New Orleansというのはけして期待を裏切らない街だということである。ただしMardi Grasの時にこの街に来るのはもちろん素晴らしいだろうが、Fat Tuesdayその日周辺にはホテルが一泊300ドル近くにもなるのでお勧めはできない(あるいは8月くらいから予定をたてればなんとかなるかもしれない)。一週間前、または二週間前の週末であれば落ち着いてパレードを見ることができるだろうし、ホテルも(それなりに)値ごろなはずなのでそのほうが安全かもしれない。そんなこんなでまた近いうちにここに—New Oelreansに、このブログに—戻ってくることを総計5kgに及ぶビーズに誓いながら、さて今日もお勉強。

2011年7月25日月曜日

Los Angeles, CA (4)

Los Angelesについてはまだまだいろいろ書くことがあって、撮り貯めた200枚超の写真を見ながらあの一週間を回想するとそれだけで幸せな気分になる(ふたりの顔の写っていない写真が驚くほど少ないのでこちらにアップできないのは残念だけど、ひとりでほくほくさせてもらっている)。たった一年ですっかり田舎生活に馴染んだ身としては都会の空気が少しだけ厳しく、外出から戻ったら手洗いうがいをする、というような都会生活のいろはをすっかり忘れて喉を痛めたりもして、人間は生まれ育ちの如何に関わらず生活の向き不向きというものがあるんだな、などと思いもしなくはなかったけれど、それでも字義通りにも比喩的にも万年晴れのLos Angelesは旅行者にとってはこの上なく楽しい場所なのである。

10年来の友人を口説き落としてついに脱がせ、初めて一緒に水着になったMalibu Beach(これまた億万長者の家々の壮観だったこと。ちなみに前述のGetty Museumの別館で、Gettyの私邸だったというGetty VillaもMalibuにあるのだけれど入るには予約が必要とのことで残念ながら行かれなかった。次回は是非行きたい)、万年晴れのLAの裏の顔ともいえる街唯一のWalmartがある裏さびれたエリア、それになんといってもいとしののdrag queen、Ravenを一目見たいというわたしの涙目の思いに答えて夜中に車を1時間以上飛ばして友人が連れて行ってくれたRiversideのThe Menagerieというゲイバー(なんとRavenそのひとは翌週West HollywoodにあるMicky'sでショウをするために不在だった…しかし初めてのドラッグショウ、ほんとにほんとにほんとに楽しくて、クイーン達におひねりをあげまくった。その度にじっと目を見てくれたり手を握ってくれたりするので失禁するほどうれしかった。自分がなにをしたいのかどこへむかっているのか最近よくわかりません) 、どれをとっても最高の出来事だった。

もちろん食いしん坊としては食べ物のことも書いておかねばならない。多くの都市同様、LAはレストランも充実しているのだけれど、なんといっても特筆すべきはアジア系の食べ物の強さである。写真左はコリアンタウンで彼女のお勧めの…これはなんという料理だったっけ、すっかり名前を忘れてしまったけれど(サムギョプサル?)、ごらんの通り豚バラ肉をじょきじょきとはさみで切って焼き鍋にのせ、周りのキムチスープと一緒に食べるもの。最後はここにごはんを入れておじやにして食べる。

アメリカ南部というのはアジアから遠く離れているためか、ほんとうにアジア人人口が少なくて、アメリカ中どこにでもあるという韓国料理店が驚くことに一店もない。アメリカ人の経営する中華料理店や寿司屋はあるのだが、それも正直言って、時に訪れるアジア料理に対する渇きを癒してくれる味とは言い難い。ただ、和食であればある程度は自分で作れるし、中華料理も工夫をすればそれなりにおいしいものが作れるのでよいのだが、こういう韓国料理だけは日本で作ったこともないのでどう逆立ちしてもできっこなく、時に、あー焼き肉食べたい!というような妙なホームシックに駆られるのだけど、ここLAに住む彼女はそんな望郷の想いとは無縁だろう。ダウンタウンにほど近いチャイナタウンでは写真のような飲茶もお腹いっぱい食べたし(おばちゃんたちがカートでいろんな飲茶を届けてくれる、あの本場式の飲茶である)、アメリカ印のハンバーガーでさえその名もUmami Burgerという、日本万歳なうまみたっぷりのバーガー屋さんがあり、これはわたしがいままでの人生で食べたバーガーの中で間違いなく一番おいしかったので、Los Angelesに行くことがあったらとりあえずだまされたと思って絶対行ってほしいところ。

しかし結局のところなによりもうれしかったのは忘れもしない去年のいまごろ、不安で泣きそうになりながらアメリカ入りしたわたしのBaton Rougeでの生活のセットアップを、はるばるLAから来てすべて(文字通り す べ て)手伝ってくれた友人と一年ぶりに再会して一週間過ごせたことで、二年連続でわたしのために夏休みを全部使わせた上、一週間で彼女の三ヶ月分くらいのマイレージを消費したのではないかというくらいさんざんいろんなところに車で連れて行ってもらって、すこし申し訳ない思いもやはり否定はできないのだけれど、毎週電話でさんざくさ話しているとはいえ実際に顔を見ればやっぱりこんなに安心できる相手がいるというのは奇跡的とでもいうほかなく、彼女の家でほんとうに満ち足りた時間を過ごさせてもらったのはほんとうに最高だった。

***

そんなわけで、わたしの苦学生なお財布ではなんのお礼もできないくらいの恩を受けたのだが、なにか出来ることはないかなぁと思っていた矢先、彼女が「ポットラックに持って行けるお料理はないかな?」と言ってくれたので、渡りに船とばかり一夜限りのお料理教室をさせてもらった。いろいろメニューは考えたのだけれど、アメリカだけではなく日本でもパーティに持って行って間違いなく喜んでもらえて、かつ外では(少なくともアメリカでは)なかなかおいしいものに出会えなくて、さらにはちょっとおしゃれな若い娘っぽい料理であるキッシュを一緒に作ることにした。ちょっと面倒くさいように思えるかもしれないけれど(そして実際自分のためだけになら絶対作らないくらい時間もかかるしカロリーも高いのだけれど)、生地から手作りしたキッシュの焼ける匂いというのは何にも代え難い幸せを(そうだな、たとえば一年ぶりの親友同士の再会くらいの幸せを)運んでくれるので、大切なひとになにか作ってあげたいときにはぜひ試してみてください。

[Roasted Onion Quicheのレシピ]

生地 (20cmのタルト型2台分なので半量で作っても)
 薄力粉 240g
バター 140g
卵 1
砂糖 大1
塩 小1/2
冷水 30ml

アパレイユ(卵液を気取ってこう呼びます)
卵 1
牛乳または生クリーム(またはhalf and halfのもの) 80ml
塩 少々
ナツメグ 少々
グレーテッド・パルメザン 大2から3

フィリング
たまねぎ 大2
マッシュルーム 1/2パック

まずは生地から。バターを1cmに切って冷凍庫に入れておく。薄力粉も冷蔵庫で冷やす。卵、砂糖、塩、冷水を溶きあわせてやはり冷やしておく。
バターと薄力粉をフードプロセッサーで撹拌する。バターが米粒大になるまで。(FPがない場合はカードかフォークで切り混ぜる。けしてバターが溶けないように注意)
②をボウルに移し、①の卵液を加え、混ぜる。あまり練らないように。水分が少し少ないように感じられてもそのうち馴染むので焦らなくてよい。とにかく練ってバターの塊がとけてしまったらさくさくにならないので要注意。
二つにわけてそれぞれラップでくるみ、冷蔵庫で最低半日、できれば一晩寝かせる(なお、この状態で冷凍もできる。)。これをしっかりしないと焼き縮む。
型にバターを塗り、小麦粉をはたく。
④の生地をオーブンシートで挟んで打ち粉を少々し、めん棒で均一に。型より3cmくらい大きくなるようにのばす。上のオーブンシートを外し、下のオーブンシートの下に手を滑らせ、裏返して型にあわせていく。底面から空気がはいらないようにくっつけてシートをはずし、その後で側面。焼き縮むので少し型より上にでるように指で押す。
フォークで軽く全体にピケ。そのまま1時間以上寝かせる(これも焼き縮みを防ぐため)
⑦の上にアルミフォイル、パイストーンを敷いて350°Fのオーブンで15分。アルミフォイルごとパイストーンを外したらさらに15分。これを空焼きという。
次はフィリング。玉ねぎは薄くスライス。マッシュルームもスライス。
フライパンにオイル(大1くらいかな)を熱して玉ねぎを炒める。あまり触らないでほっておく。玉ねぎがしんなりして水分が出たらバターを少し加え、塩こしょうで調味する。とにかく時間をかけて飴色になるまで。30分はかかるので覚悟しよう。
玉ねぎを一旦器にあけて、同じフライパンにオイルを少々足してマッシュルームを炒める。軽く塩こしょう。
アパレイユの材料を混ぜる。卵を泡立てるとオムレツのようになりがちなので優しく切るように。
空焼きしたタルトの上に玉ねぎ、マッシュルームを均一に乗せたらアパレイユを静かに注ぐ。350°Fのオーブンで40分焼いたら出来上がり。おつかれさま!あら熱をとって中身が落ち着いたら食べられます。


優しい友人のこと、わたしが帰った数日後には他にもいくつかあったサイドディッシュやスープなど、ぜんぶのレシピを試して、お気に入りのiPhoneで写真をとって送ってくれました。次に会うまでにまたわたしもたくさん新しいレシピを用意しておくので、どうかまたわたしの夏休みにはあなたの笑顔をいつも見せてくださいね。ほんとうに、ほんとうにありがとう。一年後に会う時には、もっと強くたくましく(それからあなたのかわりに運転もできるように)なっていますように!

Los Angeles, CA (3)

消費の話に傾いたが、さてしかしLAを発ってひと月が過ぎようとする今日この頃、なつかしくあの一週間を振り返ってひとことであの街を形容するならなんなのか、と思えばそれはやはり、因果なまでに果てしない欲望なのである。都市というものが欲望によって駆動している、というのは自明も自明なのだが、世界屈指の消費都市に生まれ育ち、若さにまかせてそれなりには都会的欲望というものに触れてもみてきたというにも関わらず、LAという街の欲望のエネルギーにはどうにも驚かされて仕方がなかった。

ひとつにはそれは、この街の主要産業がエンターテイメントだということがあるのだと思う。東京もニューヨークも、もちろん都市は都市でそれなりに欲望が渦巻く様子は容易に観察され得るのだけれど、蕩尽的欲望のみならず、それを生み出し支えコントロールする日常の冷静ですこし気怠い存在感というのが常にどこかには感じられるわけなのだが、LAという街はなんというか、ハレとケでいうところのハレが万年続いていてケが存在しないように見えるのである。もちろんそれはわたしが旅行者で、ハレの場にばかり足を運んでいた、というのも理由としては大きいのだろうけれど、しかしそれにしても、たとえば同じ観光で行ったNew Yorkでは観光の途中、道行く人にある種の生活感を感じることは多々あったのだけれど、LAというのはレストランのウェイトレスやスーパーのレジ打ちのおにいちゃんでさえ俳優志望、モデルの卵だったりするわけで、なんというか人々が皆、LAという書き割りの舞台の上で常に誰かに見られていることを意識しているようなそんな感じがある。考えてみればそれも当たり前といえば当たり前で、街のなかにかの有名なHollywoodやBeverly Hillsがあって、映画スターが普通に暮らしているわけだから、日常とスペクタクルのボーダーが限りなく曖昧な街だということなのかもしれない…などとハリウッド・ビバリーヒルズのバスツアー(オープンエアで気持ちがいいことこの上なく、2時間ほどかけて街をじっくり回りながらいろいろ説明してくれるので楽しい。バスはチャイニーズシアターの前から出ている。ひとり$35くらいだったと思うが、まちがいなくお値打ち。ただし日差しが半端ないので帽子が必須)でセレブの家々などを眺めがなら思った。ちなみに写真は故マイケル邸。

しかしそんなふうに欲望が渦巻くどころか逆巻いて天を目指す天使達の街Los Angelesが、その欲望の濃度と強度にもかかわらず信じられないほど居心地がいいのは、実は地形的な要因が大きい気がする。山と海に挟まれた細長いこの街は(日本で言うと神戸を思い描くとよいと思うのだが)都市にありがちな閉塞感というものが皆無である。まずビルがない。いやもちろんないわけではなくてよくドラマなどで見るビル群というのは間違いなくダウンタウンに存在はしているのだけれど、それ以外の場所にはいわゆるスカイスクレイパー的な高層ビルがなく、高いビルでも10階立て程度、しかもビルとビルの間にそれなりに距離があるので、上を見上げるまでもなく大きな空にカリフォルニアの太陽が燦々とさしているのが常に感じられるし、フリーウェイからはほぼ常に山が見える。

上の写真のGetty Museumはその意味でLAの象徴的存在のようで、小高い丘(というか山)の上にそびえ、Los Angelesの街と太平洋を見下ろす私設美術館である。この美術館はJ Paul Getty という、ひとときはギネスブックにも載ったほどの大金持ちの美術コレクターの死後、10億ドルをかけて立てられたというものなのだが、コレクション自体よりもなによりも、個人の資産でこれだけのことが可能なのだということを誇示するようにどこまでも続く白い石造りの建築が有名で、なにしろ入場が無料(パーキング代が入場料になっているとのこと)ということもあり、ピクニックにはもってこいの場所である。ちょうど A Revolutionary Project: Cuba from Walker Evans from Nowという展示がやっていて、Cuba人写真家たちの「nationalisticな」とされる写真と、「Cubaの現状をえぐる」とされるアメリカ人写真家たちの写真のコントラストが強調されていて、いやいや資本主義の髄を集めたようなこの美術館でこの展示かぁ、と若干苦笑いをしなくもなかったが、でも公平にみてなかなか面白い展示だった。Evansというのは恐慌期のアメリカ農村部(特に南部)を記録的に描写した写真(Straight photographyと呼ばれるものだが)で有名で、その写真がFSA ProjectというNew Dealの一貫である農家救済政策に資したことからその政治性を話題にされることもあるのだが、実際の彼の写真はどちらかといえば人間の身体を含めすべての対象を抽象的なフォームに還元して捉えるある種のaesthesicism のほうが際立っている。妙なsentimentalismに淫することなくかといってただ冷徹に対象を記録するだけでもなく、対象の線的な美しさにEvansが芯から魅せられているのがわかるようで、やっぱりいいなぁと思った。考えてみれば美術館に行ったのは実に久しぶりで、というのもBaton Rougeには美術館とか画廊とかそういういわゆる文化的なものが全然存在しないからなのだった。自分はそういったものには別に未練はないと思って無頼を気取ってきたけれど、いざ久しぶりに絵とか写真とかそういったものに触れると、ああやっぱりたまにはこういう活動が恋しいものなんだな、と思う。MOCA (The Museum of Contemporary Art) では実にLAらしくstreet art展が催されていたようで、最近BanksyExit Through the Gift Shopというドキュメンタリーがけっこうおもしろかったので行ってみたかったのだけれどこれは時間がなくて行けなかった。LAではコンテンポラリーが主流で、いわゆる古典絵画の展示が少ないのが弱みだと友人は言い、わたしもあまりこてこてのコンテンポラリーとかコンセプチュアルアートは苦手なのだが、いやはややっぱりLAに来ると、そういうのも見ておきたいものだと思うのだ。次回は是非行こう。