お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2011年2月26日土曜日

Jambalaya

LSUに進学を決めた理由はいろいろあるのだけど、こんなことを言うとなにすっとぼけてんだと怒られそうだが、決め手のひとつにルイジアナの食文化があったのは、けして嘘ではない。

去年の今頃、いろいろな大学から入学許可が出て(これは自慢でもなんでもなく、それはもうどこにも受からなかったらやばいと思って死ぬ気で南の学校ばかり無節操に20校くらい受けたから、入学許可も出るというものなのだ)、気候とかプログラムとかあとはもちろんTAshipの額とか、いろいろ比較しつつ結局のところよくわからんな、と思いながらWikiでルイジアナを調べてたら、Holy Trinityという言葉が目に飛び込んだ。ルイジアナはもともとフランス領だったので、フランス系の血をひくCreoleやCajun(これらのethnic groupの定義はほんとにややこしくて、単にフランス系というだけではすまされないのだけど、とりあえずそれは措いておく)の文化が根強い。Creole料理はなんというのか、こってりと昔ながらのフレンチ系(ただししばしばスパイシー)、Cajun料理はもうちょっと全体的にシンプルなお父さんの料理(ただしほぼ間違いなくスパイシー)なのだけれど、ふたつの料理に共通しているのがこのholy trinityで、これはほとんどの料理に共通して使われる、たまねぎ、セロリ、ベルペッパー(日本で言うパプリカ)の香味野菜の三位一体を指す。フランス料理ではたまねぎ、セロリ、人参をみじんぎりにして炒めたものをmirepoixと呼ぶらしいのだけど、その名残なのだろう、大抵の場合この三種の野菜を細かく刻むかダイス状にしたものをゆっくりと炒めるところから料理が始まるのだけど、こうやって香味野菜をふんだんに使う料理がまずいはずもない。わたしのルイジアナの食文化にたいする敬意はWikiでこの言葉を目にした時にすでにほぼ確立され、それがわたしがLSUに進学を決めた理由のひとつにもなった。

あまり知られていないかもしれないが、日本のファミレスでも定番の味、ジャンバラヤも実はCajun料理である(ああなつかしのJonathan!)。なので当然のごとく、ルイジアナ中どのスーパーにもたいてい写真のようなジャンバラヤミックスが売っている。中にお米とスパイスのもとが入っていて、あとはholy trinityとソーセージ(ただしこっちのソーセージは直径4cm、長さは20cm以上でこれまたたいていスパイシー)、それに鶏肉があれば簡単にジャンバラヤが作れてしまう。これはこれでけっこうおいしいのだけれど、先日彼が海老とホタテを持ってきて、今夜は一緒にシーフードジャンバラヤを作ろう、というので自分達の創意工夫でジャンバラヤを作ってみたら、なんのことはない、ジャンバラヤミックスを使うまでもなくジャンバラヤというのは手軽な料理で、手作りするとうまさも倍増なのだった。覚え書きもかねてレシピを書いておこう。

まずはholy trinity。ただし今回はそれにくわえ、にんにく(2かけ)と生姜(1かけ)もみじんぎりにして最初にたっぷりめのオリーブオイルのなかで弱火で温める。じゅわじゅわしてきたらスライスした玉ねぎ(大1個)を投入。それからやっぱりスライスしたセロリ(3茎くらい)を加えて、じっくり炒める。玉ねぎがうっすら茶色くなるまで我慢。しゃにむにかき混ぜずにほっておいても水分が野菜から出るので大丈夫。途中、ダイスにしたベルペッパー(今回は緑1、赤1)も軽く炒めて、いい感じになったらクミン(これも最初はdiscommunicationのもとで、「キューマンある?」「なにそれ、そんなのないよ」みたいな感じで最初はクミンのことだとは思わなかった)、ターメリック、カイエンヌペッパー、塩こしょう(ガーリックソルトと普通の塩)、それから秘密の "slap ya mama" というケイジャンスパイス(数あるケイジャンスパイスのなかでこれが一番人気) でしっかり目に味付け。

海老とほたての下ごしらえ。白ワインと塩で軽くもめば、アメリカの魚介類特有の臭みもさほど気にならない。野菜が十分に炒まったら一度お皿にだして、同じフライパンにオリーブオイルを足して海老とほたてに焼き目をつけるように炒める。フライパンには野菜とスパイスのうまみが詰まっているので拭いたりしないこと。海老のほうが火が通るのに少し時間がかかるので、ホタテは海老がほんのり色づいてから。ソーセージや鶏肉を使ったジャンバラヤのときも、同じようにすればいい(ワインの下ごしらえはいらないけど)。軽く火が通ったら野菜をフライパンに戻して、一緒に炒めあわせる。

で、普通のジャンバラヤの場合はこの時点で洗っていないお米を入れて(1合半くらいかな)だいたいお米の2倍くらいのチキンブロスとダイスにしたトマト(2個くらい)を加えて、水分が煮立ったら30分くらい煮込むのだけれど、今回はちょっと急いでいたのとブロスがあまり残ってなかったのと、それからあまりトマト味が強すぎるのが好みではなかったので、フライパンに白ワインを50ccくらい足してアルコール分を飛ばして、そこにトマトペースト5cmくらいを加え、そこにお鍋で別炊きしていたごはんを投入して軽く炒めあわせた。今回はこの方法がうまくいって、チキンブロスで煮込むと魚介の味が薄まってしまうと思うのだけど、しっかりホタテと海老の風味がごはん全体に行き渡った。ごはんを炊くのにだいたい20分強かかる(沸騰してから10分、蒸らし10分)のだけど、ちょうど蒸らしが終わった頃に他の準備が終わったので、ごはんを炊き始めたのが開始10分弱くらいだったことを考えると、30分以内でジャンバラヤができたことになる。

わたしはもともと料理が好きで、昔付き合っていた人の家でもよくごはんを作ってバイトから帰ってくる彼を待つという演歌みたいなことをしていたのだけれど、同時にいつもひとりで作業をするということになれていたので、いま付き合っている人と会う前は誰かと一緒にごはんをつくるということをしたことがなかった。なので最初に一緒にごはんを作ろうと言われた時は腰が引け気味だったのだけど、何回か一緒に作ってるうちに、なんだこれ楽しいな、ということに気づいた。副菜も同時に作れるし(今回はnappa cabbageという白菜みたいな野菜のサラダと、それから写真前方右のdelicata squashというかぼちゃの一種をただオーブンで焼いて、ほんの少しの塩とバターをからめたもの。シンプルだけど、死ぬほどうまい。ちなみに左はspaghetti squashというもので、これも調理法はdelicata squashと同じなのだけど、焼き上がって割るとその名のとおりスパゲッティーみたいな繊維状の中身が出てくるので楽しい。ただし味はdelicataのほうが濃厚で好み)、なによりままごとみたいで童心に返る。コースワークで死ぬほど忙しい毎日だけど、こういうほっとできる一瞬があるのはほんとにありがたいな、と思う。はっ。のろけてしまった。でも今日も宿題の映画のレビューを一本書いたうえ、書き上がった瞬間に椅子の上で身体をうんとのばしたら椅子から転げ落ち、となりに置いてあった木製の椅子に頭を強打してしばらく動けなかったので、明日もしかしたら脳震盪が後から来て動けなくなるかもしれない(と本気でパニクったのだが)ので、こういう幸せな瞬間を記録しておくことも大事なのだとひとり納得。

2011年2月25日金曜日

バスケットは、お好きですか?

説明は不要かとは思うが、タイトルから察せられるとおりわたしはスラムダンク世代である。で、実際のバスケットボールが競技として好きかっていうと、大学入試前に高校の体育の授業でチェストパスを受け損ない骨折するくらい球技が苦手なわたしのことである、スポーツ観戦一般に言えることではあるが、別段興味はなかった。

だが、わたしのアパートは大学のバスケットボールスタジアムの目の前にある。そしてわたしの彼はアメリカ人である。うちでごはんを食べると、ねぇねぇちょっとパソコン見せて、と言ってかちゃかちゃなんか検索してるなと思うと、あ、いま試合やってる。おなかいっぱいだから散歩がてらに観に行こう、みたいな感じでしばしば試合に連れて行かれることになる。

LSUは基本的にスポーツに対する投資が半端ではない。特にフットボールに関しては、ギリシャのコロセウムをドラえもんのライトででかくしたみたいなみたいな巨大なフットボールスタジアム(10万人収容)があるくらいで、実際けっこう強い。最近では2007年に全米チャンピオンになって、その後コーチが代わって不振が続いてたそうだが、今年はわりと成績も悪くなくて、ベスト8に入ったようだ。だがその分、チケットはとりづらくて(定価10ドルくらいのチケットが100ドルくらいで売られている)、しかもコースワークのまっただ中、3時間もフットボール観戦なんてできませんよ、ということで今年は観戦に行かなかった。が、バスケットボールはここ何十年と成績の低迷が続いているせいであまり人気がないため、試合中盤になるとチケットもなにも持たずふらっと行ってもチケットなしで入れてしまう。

そんなわけで最初はなんの期待もなしに渋々ついていっただけだったのだが、これがまぁ、すごいのである。なにがすごいって、大学生の試合で普通にダンクとかアリウープとかまったくもってスラムダンクの世界が展開され、おまけに空いてるからとことこと階段をおりて3列目とかで見られてしまうのだ。これにはさすがに無関心でいられるわけもなく、今シーズンはなんだかんだで6試合も観に行ったのだった。いやほんと、ほんとにほんとにほんとにすごい。特に黒人選手の肉体と動きというのは、普段教室で、異人種にプリミティブな力を見いだすのはいかがなものかというPC的アカデミックディスコースの中にいるのを忘れるほど、いや、もう、なんかやっぱり人種によって遺伝子って違うんだなぁと思わずしみじみとほれぼれしてしまう。

写真はこれまた眼福のチアリーダー。今日はたまたまブロンドちゃんが目の前ではじけてくれたのでこの写真だが、近くで見るとけっこういろんなタイプがいて、ハーフタイムはもちろん、タイムアウトの度に思い切り目の前で踊ってくれるのでなんかもう、アメリカ万歳の気分である。しかも今日は、入った時は7-22で負けていたというのに最終的には延長で勝つというドラマチック具合で、ほんと、あきらめたらそこで試合終了ですよ、という安西先生の言葉が心に沁みて本気で感涙しかけた。

というわけで答えは、「大好きです。今度は嘘じゃないっす。」おたくですみません。

                             

2011年2月22日火曜日

Dracula

ここ最近、前述のVictoria朝文学の授業で、Bram Stoker の Dracula (1897) を読んでいたのだが、これがめっぽう面白い。

以前New Orleansについてのポストでも触れたが、アメリカにおけるvampire人気はけっこう凄まじい。映画Twilight Saga、テレビシリーズ True Blood (なお、両方とも撮影はわが町Baton Rougeで行われた、というか今も最新のTwilight Sagaの撮影が行われている)は言うまでもないが、StokerのDraculanには数えきれないくらいの映画のアダプテーションがあるし、vampireもののライトノベル(という呼び名が英語にないのがもどかしい)、アニメ、ゲームなどなど、vampire産業の発展はとどまるところを知らない。が、なにせsimulacraの国日本から来ましたわたくし、あらあらアメリカにもそんな文化があるのね、微笑ましいこと、でも日本のオタク文化には及びませんことよ、みたいな感じで、正直、特別な興味はなかった。

 が、いざ読み始めてみると、なるほど納得の面白さ加減で、ひさしぶりにワクワクテカテカしながら読み切った。Stokerはいちおうれっきとしたプロの作家なのだが(ちなみにStokerはIreland出身のエリートで、かのOscar WildeとともにTrinity Collegeに通い、文武両道に優れた生徒会長みたいなものをつとめ、後にはWildeの許婚を奪い取ったりしている)、小説としてのinner logicはけっこうはちゃめちゃで、おいおいさっきまでの記述と食い違うよそれ、というような瞬間がけっこうあるのだが、それでも(むしろそれゆえ、に近いのだけど)とにかくぐいぐいと読ませる勢いがある。というか要は本人がほとんど勢いだけで書いてるので、ある意味でauthorial controlの行き届いていない、無意識丸出し感が強い。しかし作者の無意識が丸出しになっているだけならそんなものは単なる自慰文学にすぎないのだけれど、Draculaのすごいところは作者の無意識が時代の無意識とみごとに混じりあってur-fantasyを作りあげているところなのだと思う。もちろんGothicというジャンル自体、この作品をrealism小説として読むことを不可能にしていて、だから多くの批評は作品の描写をsymbolicあるいはmetaphoricalなものとして捉え、作品の起源にある欲望を特定しようとするわけなのだが、作品自体(そしてDracula伯爵の造形も)があらゆる「他者(性的他者、人種的他者、階級的他者、その他いろいろ)性」をごたまぜにして一つにまとめているもので、なんらかの単一的な欲望を措定しようとする批評的目論見はたいてい頓挫させられる。が、頓挫させられると知りつつ、批評的欲望をいかんなくそそるのがこの作品の名作たるゆえんである。

特にsexuality関連の批評の数は、たぶん他のどんなメジャーな英語圏文学作品より多いのではないかと思うし、実際この作品について語る時、性に関する言及を100%避けることは不可能ではないにしても、極めて難しい。というのも、Draculaという作品自体がDracula伯爵の生殖活動/reproductionを巡る物語だからなのだが、この伯爵の生殖活動(相手の血を啜る、自分の血を送り込む)の描写が極めて「性的」なのである。が、あえて括弧に括って「性的」というのはむろん、それが果たして我々がなにをもってある行為を「性的」と見なすかに関わってくるからで、Draculaという作品の倒錯性とそれが読者にもたらす快楽は「性的」とはなんであるか、というのことを常に問いかけてくる。作品が書かれた19世紀後半というのはsexualityが言説化された時代で、それまでは単なる行為にすぎなかった「性」が、科学的、社会的、法的言説として整備され、知の対象としてsexualityというアイデンティティカテゴリーを形成するようになった、というのがFoucaultの説なのだけれど、Draculaにおける「性」の乱れはまさにこの時代のsexuality言説強化の動きと密接にかかわり合っている。

そんなわけでこの間は授業でこの作品に関してプレゼンをした。Draculaという作品自体を、無制限に自分のコピーを再生産する伯爵の肉体とのアナロジーで捉え、この作品を分析欲望を無制限に再生産する身体として論じたのだけど、タイトルは "Anal/ytic Desire: Fear and Lure of Non-genital Reproduction of Dracula"で、これがけっこうウケた。 FoucaultはThe History of Sexuality の中で、西洋社会の性にまつわるモードをscientia sexualis (science of sexuality)、東洋社会の性にまつわるモードをars erotica (erotic art)と命名していて(このFoucaultのオリエンタリズムはそれだけでもけっこうおもしろいのだが)、後者が性行為の快楽そのものの多寡に関わる知識の集積を目指すもの(カーマスートラ的な)であるのに対して、前者は性を科学的にカテゴライズしコントロールすることを目指す、としているのだけど、おもしろいことにFoucaultは、scientia sexualisというのは実は、西洋的なars eroticaの変異であって、性を言説化すること自体に性的快楽が宿る、という可能性をちらっと示唆している。そんなFoucaultに乗っかってわたしもDraculaという作品を巡る分析欲望(Analytic Desire)自体が性的欲望に備給されていて、Draculaの性について公に語ること自体が、性器結合から逸脱した性的満足(Anal/ytic pleasure)を生産している、というような論旨の発表をしてars eroticaの国から来た人の面目躍如を目指したのだが、そんな中、ここぞとばかりanalとかanusとか大声で連発して、ああすっきりした、というそんなわたしの満足が性的なものではないと、誰が言えようか。

2011年2月10日木曜日

Epistemology of the Closet

いちおう、前回の続きで、セクシュアリティの授業の話である。

Eve SedgwickのEpistemology of the Closet (『クローゼットの認識論』)、実は大学に入った時に目を通した覚えがあるのだが、Judith ButlerのGender Trouble同様(実際この2冊の刊行年は同じ90年で、邦訳も両者ともに99年)、ガチガチの構築主義で直感にあまりにも反するというか、なんかなぁ、という感じでほっておいたのであった。本質主義と構築主義というのは、誤解を恐れずひらたく言えば本質主義が「社会的なものは自然なもの(=本質)を反映している」という立場をとり、ある概念、カテゴリーに対しそれに固有な普遍的特徴を与える一方、構築主義は「自然とされているものは社会的に自然に見えるように構築されているにすぎない」という立場をとる、というようにとりあえず説明される。たとえばButlerのGender Troubleは、これも恐ろしく雑駁にいえば「自然な二項対立」の最たるものとされる「男と女」という生物学的カテゴリーでさえ、gender同様、社会的に構築された恣意的な区分だとに主張するわけである。Butlerのこの主張自体についてはもう少し考える必要があるが、とりあえず言えるのは、まぁ読んだ当初の感想は当たり前といえば当たり前で、Butler的に言えば「直感に反する」の「直感」が社会的構築物なんだからそんなの当然だ、当然にバイアスがかかっているのだ、ということになるし、それは正しいような気がする。

で、今回セクシュアリティの授業(授業タイトルはEtiology of Sexualityという)で改めてSedgwick を読んだわけだが、Sedgwickの場合、標的となる「自然な二項対立」はhomosexual/ heterosexualである。Sexual object choice (ある主体が性欲望の対象とする性)によってセクシュアリティをばっさりと二分割し、あたかもそれ以外の区分軸が存在しないかのようにその分類を規範化することの恣意性をSedgwickは指摘し、この強引な二分化の下で(二分化が「自然」でないからこそ)いかにheterosexualityが自らをhomosexualityから切り離し、homosexualityをstigmatizeすることで自己規定を行ってきたかを示す。この二分化がはっきりなされたのは19世紀半ば(Foucaultによれば1870年代)であって、それまで同性間の性関係はあくまで「行為」にすぎなかったのが、これ以降同性間で性行為を行う者にはhomosexualというアイデンティティが与えられることになった、とするSedgwickは、近代において男性は常に自分のheterosexualityを証だてるよう迫られてきたのだと主張する(ちなみにHenry Jamesの傑作短編 "The Beast in the Jungle" を強制的異性愛の軸で分析した第四章はほんとに美しくて泣ける)。

初めて読んでから10年になるわけだが、そりゃ10年前に読んでなにがわかるでもないよな、と思うのは脳みそ的な成長もさることながら、やっぱりいい意味で年をとったということなのだと思う。よく言えば花盛りわるく言えば発情期の18の女子大生に強制的異性愛がどうこう言っても、だってアイラビュー恋をしようよイエィイエィなわけで、馬の耳になんとやらである。別にイデオロギーから自由になったなどというつもりは毛頭なく、強制的異性愛というターム自体いまやアカデミア的イデオロギーの産物のひとつであるわけなのだけど、Sedgwickを読んで、ついつい自分の来し方行く末に思いを馳せてしまいながらしみじみと思うのは、hetero/homo binary自体の恣意性もさることながら、romantic love ideologyというのは罪なものだよなぁということで、同性異性に関わらず恋人や伴侶がいないと人間失格みたいな風潮はほんとにどうにかならないもんか、と思うのだった(そしてかの教授の博論のテーマはcelibacy、つまりこれまで抑圧されたhomosexualityとされてきた独身生活/非性交的生活をひとつのsexualityとして捉えるというものなのだった)。

脱線になるが、同時にSedgwickみたいな理論家が出てくるのはやっぱりアメリカだからなのかなぁと思うのは、こっちにきて初めて男性にかかる異性愛プレッシャーの強さを肌で感じたからなのかもしれない。日本とアメリカという対照で面白いのは、genderとsexualityの縛りの強さの差だったりする。gender的に言えば日本のほうが縛りがきついというか、男は男の役割を女は女の役割をきちんと演じることが日常レベルでわりと常に要求されるのに対して、アメリカでは60年代以降そういうgender roleはどんどん失われており、例えば私たちくらいの世代(あるいはもう、その親の世代でもそうなんだけど)になると専業主婦は絶滅危惧種というか、「お母さんが料理(というか家事全般)をする」というコンセプトも廃れ、いやな言い方をすればママの味は冷凍ピザということも珍しくないし、そのかわり男性にかかる「大黒柱」としてのプレッシャーも比較的小さい。大学院生を見ていてもそれはけっこう明らかで、女の学生が結婚している場合、遠い地の大学院に通うことになったら旦那さんが一緒に引っ越してその地で仕事を探しながら家事をする、というような例も多く、少なくともわたしの学年の英文科の女子8人のうちなんとも3人がこのケースに当てはまる(もちろんアメリカの大学院が大学院生にTAのポジションを与えて月15万くらい稼げるシステムだから可能なのだけど)。

が、そのようにgenderに関してはある意味ユートピアみたいなアメリカ、惜しむらくはsexualityにおける規範の強さで、その点日本はsexualityに関してはありがたいことに縛りがゆるい。どういうことかというと、アメリカのsexualityというのはどうにもpenetration orientedというか、いわゆる普通の(こっちでいうと"vanilla"な)セックスの支配力が強大なのだが、その点は日本チャチャチャ、日本人のセックス観というのは比較的多くのvariationを許すのである。わたしの日本でのアメリカ人の友人が「日本人は全員変態だ」というのが至言を残したのだが(ちなみにこの友人、以前書いた「日本人には愛がない」を発した人で、この二つの発言はアメリカにおける「愛」と「性器中心的なセックス」の緊密な関係を示している)、いろんな意味で日本人はfetishisticであり、男女の性器結合そのものよりむしろその周縁(遥か果ての周縁にまで)にこそエロスを見いだすという風に彼は言っていたのだが、乱暴な一般化を恐れずにいえば、うん、それは全く正しい。で、アメリカ的genital orientedなセックスが何を生み出すかというと、男は常に固いイチモツにより自らの性の規範性を示さなければいけないというようなプレッシャーなわけで、だからこそバイアグラがこんなに流行るのだろう。Gay、lesbian、bisexualを初めtransexual、transgender、transvestiteその他もろもろいろいろなsexual minorityが力を持つアメリカは日本よりも性的に開放的であるというイメージが強いし(モザイクもないしね)、政治的に言えばまったくそのとおりで、日本のsexual minorityがアメリカより遥かに肩身の狭い思いをしているというのも事実ではある。が、アメリカの"sexual minority" が自らのsexualityを明確なidentityとして定義し、コミュニティを形成するのは、実はそうやってはっきり白黒つけることが求められるほどに強制的異性愛のプレッシャーが強いことの裏返しでもある。日本だともうちょっと「スタンダードなセックス」の幅が広いので、ある程度の性的偏向を持っていてもmajorityでいることができる…気がする。

いつものとおり話が脱線したまま長文になってきたのでこの辺でとりあえず終わるが、さて、sexualityがidentityの主要構成要素となり、sexual minorityが "sexual minority" としてのidentityを持つというのは、それによってある種の政治的社会的権利を獲得しうるという美点は間違いなくあるにしても、ある意味では自分がどのようなsexualityを有するかというのがことほどさように社会的に問題化されているということの証左でもあり(たとえば「牛より豚が好き」はidentityにはならないわけで)、べつに単なる好みなんだからいちいち宣言するほどのことじゃないじゃないですか、という緩さを社会が許さないということでもある気がする。べつに「カミングアウト」の意義を貶めるわけではないのだが、自らをgayであるとidentifyしそれを社会に対して表明することは、ある意味ではhetero/homo binaryによる社会構成を一度受け容れることであるわけだから、「カムアウトしない」という行為自体にもそれなりの政治的意義はあるのではないかな、などと思うわけだ。

そんなわけでわたしは自分のsexualityに関しては当分何者としてもカムアウトしません。牛より豚が好きだけど!でも牛も煮こめば美味しいし!というわけで、もう、なにがなんだかわかんないけどとりあえずアップ。

我片思うゆえに我あり

さて、新学期がはじまった。前学期で少しは慣れたかと思いきやどっこい以前に輪をかけてリーディングの量が多く、相変わらず自転車操業の日々である。しかもなんというのだろう、前学期は(どこかで書いたと思うのだが)英語環境における自分のvulnerabilityのようなものをほぼ全面的に心地よいものとして受け容れられていたのだが、結局のところどうもわたしはphallic woman以外の何者でもないということなのか、今学期はやけに去勢感が強く、言語で環境をコントロールできないという状況に涙する日々であった。前学期の終わりには割に普通にディスカッションにも入り込めていたのに、今学期の初めはどうにも割り込めない。自らを強引にねじ込めるでかいファルスがほしい。

というような状況が一週間ほど続き、国に帰りたい、とここ七ヶ月で初めて思ってしょぼくれて廊下を歩いていたら、今学期とっているセクシュアリティの授業の先生にばったり出くわした。Queer Studies枠で去年LSUに入ってきたばかりの若い先生(メガネをかけたテディベアみたいな風貌で、ハリーポッターみたいなコートを着ている)なのだが、この人が本当にもう、なんというか、仏のように優しい。挨拶したら「元気?オフィスに寄ってったら?」みたいな感じであれよあれよという間にオフィスに連れ込まれ世間話をする。途中、彼の仲のよい女性教授が訪れるも、「いまもっと大事な用事があるから!あとでねあとで!」とか言ってわたしとしょうもない話を続けてくれる。で、なかなかディスカッションに割り込めなくてすみません、と本題に入ると、真面目な顔になり、アメリカで研究を続けて行くにはやっぱり自分の研究のいいところをプッシュできないとだめだから、しゃべる練習はしなくちゃね。たくさんいいアイディアを持ってるのはわかってるんだから!来週からはどんどん当ててくよ!とにこにこ笑顔で言う。

翌週、実際授業になるとこの先生、わたしの表情をほんとによく見ていてくれていて、わたしがしゃべりたい時に話をすっと振ってくれる。あ、しゃべれるじゃん、と思って安心すると、なぜか彼がお母さんみたいな顔でうんうんうんうんうんとうなずいており、いつの間にか話をさらに広げてくれている。そんなこんなで、ああ、今日はなんか調子が取り戻せた、としみじみしながら廊下を歩いているとまた先生に出くわし、「今日はほんとにありがとうね、すごく、すごくよかった」みたいなことを言ってくれる。そんなこんなで今日は三週目だったのだか、なんとかディスカッションに入り込めて授業も無事終わり、帰ろうとすると雨が降っていることに気づき、まぁでも歩いて5分だしなんとかなるか、と思っていたら、また先生に出くわす。「雨すごいよ!車のってきなさい!5分でもダメダメ!」みたいな感じで家まで送ってもらう。

さて、こんな風にされたら恋するしかないじゃないかとおもうのだが、Queer Studiesの教授ということから予想されるとおり、我々は性指向的に交わらない運命にある。しかし、なんというか、ふと思ったのだけど、他人にこういう形で優しくされた経験はわたしの人生になかったようかもしれない。当たり前といえば当たり前で、日本ではこういう風に絶対的に弱い立場に立ったことがなかったということなのかもしれないし、それに一時的にどうしようもなくなった時、友人、もちろん友人はかけがえなく、いつでも無限と思えるものを与えてくれる。が、ある意味で友人関係というのは互恵性の上になりたっている(それがたとえ対称的なgive and takeではなくても)わけで、機が熟せばわたしも惜しみなく与えうると思っているが故に、相手の優しさを素直に受け容れることができるのだろう。しかしまぁなんというか、ほんとにこういう風に、ある意味なんの関係もないのにひとに優しくできるって、どういうことなんだろう、となんだかしみじみ考えさせられる。それはたとえばマイノリティ同志の連帯、ということなのかもしれず、たとえばアメリカに来てつくづく感じたのは、アフリカンアメリカンの人々がやけにアジア人であるわたしに優しいということで(もちろん例外はある)、ゲイの彼がアジア人であるわたしに同様のマイノリティ連帯感で優しくしてくれているという可能性もある。が、どうもこの説明もしっくりこない。あの人の優しさはいったいどこからくるのか。わたしはあの人みたいになりたい。

などと悶々と考えていたら深夜二時を回った。ただでさえ貴重な睡眠時間なのに眠れないのは困るので、せめてここに思いの丈を綴っておくことにした。この思いをなんと名付ければよいのか。やっぱり片思いか。まいったなもう。

※ちなみに写真は「我アウトするゆえに我あり」なのだがこのアウトはもちろんcoming outを指す。