さて、新学期がはじまった。前学期で少しは慣れたかと思いきやどっこい以前に輪をかけてリーディングの量が多く、相変わらず自転車操業の日々である。しかもなんというのだろう、前学期は(どこかで書いたと思うのだが)英語環境における自分のvulnerabilityのようなものをほぼ全面的に心地よいものとして受け容れられていたのだが、結局のところどうもわたしはphallic woman以外の何者でもないということなのか、今学期はやけに去勢感が強く、言語で環境をコントロールできないという状況に涙する日々であった。前学期の終わりには割に普通にディスカッションにも入り込めていたのに、今学期の初めはどうにも割り込めない。自らを強引にねじ込めるでかいファルスがほしい。
というような状況が一週間ほど続き、国に帰りたい、とここ七ヶ月で初めて思ってしょぼくれて廊下を歩いていたら、今学期とっているセクシュアリティの授業の先生にばったり出くわした。Queer Studies枠で去年LSUに入ってきたばかりの若い先生(メガネをかけたテディベアみたいな風貌で、ハリーポッターみたいなコートを着ている)なのだが、この人が本当にもう、なんというか、仏のように優しい。挨拶したら「元気?オフィスに寄ってったら?」みたいな感じであれよあれよという間にオフィスに連れ込まれ世間話をする。途中、彼の仲のよい女性教授が訪れるも、「いまもっと大事な用事があるから!あとでねあとで!」とか言ってわたしとしょうもない話を続けてくれる。で、なかなかディスカッションに割り込めなくてすみません、と本題に入ると、真面目な顔になり、アメリカで研究を続けて行くにはやっぱり自分の研究のいいところをプッシュできないとだめだから、しゃべる練習はしなくちゃね。たくさんいいアイディアを持ってるのはわかってるんだから!来週からはどんどん当ててくよ!とにこにこ笑顔で言う。
翌週、実際授業になるとこの先生、わたしの表情をほんとによく見ていてくれていて、わたしがしゃべりたい時に話をすっと振ってくれる。あ、しゃべれるじゃん、と思って安心すると、なぜか彼がお母さんみたいな顔でうんうんうんうんうんとうなずいており、いつの間にか話をさらに広げてくれている。そんなこんなで、ああ、今日はなんか調子が取り戻せた、としみじみしながら廊下を歩いているとまた先生に出くわし、「今日はほんとにありがとうね、すごく、すごくよかった」みたいなことを言ってくれる。そんなこんなで今日は三週目だったのだか、なんとかディスカッションに入り込めて授業も無事終わり、帰ろうとすると雨が降っていることに気づき、まぁでも歩いて5分だしなんとかなるか、と思っていたら、また先生に出くわす。「雨すごいよ!車のってきなさい!5分でもダメダメ!」みたいな感じで家まで送ってもらう。
さて、こんな風にされたら恋するしかないじゃないかとおもうのだが、Queer Studiesの教授ということから予想されるとおり、我々は性指向的に交わらない運命にある。しかし、なんというか、ふと思ったのだけど、他人にこういう形で優しくされた経験はわたしの人生になかったようかもしれない。当たり前といえば当たり前で、日本ではこういう風に絶対的に弱い立場に立ったことがなかったということなのかもしれないし、それに一時的にどうしようもなくなった時、友人、もちろん友人はかけがえなく、いつでも無限と思えるものを与えてくれる。が、ある意味で友人関係というのは互恵性の上になりたっている(それがたとえ対称的なgive and takeではなくても)わけで、機が熟せばわたしも惜しみなく与えうると思っているが故に、相手の優しさを素直に受け容れることができるのだろう。しかしまぁなんというか、ほんとにこういう風に、ある意味なんの関係もないのにひとに優しくできるって、どういうことなんだろう、となんだかしみじみ考えさせられる。それはたとえばマイノリティ同志の連帯、ということなのかもしれず、たとえばアメリカに来てつくづく感じたのは、アフリカンアメリカンの人々がやけにアジア人であるわたしに優しいということで(もちろん例外はある)、ゲイの彼がアジア人であるわたしに同様のマイノリティ連帯感で優しくしてくれているという可能性もある。が、どうもこの説明もしっくりこない。あの人の優しさはいったいどこからくるのか。わたしはあの人みたいになりたい。
などと悶々と考えていたら深夜二時を回った。ただでさえ貴重な睡眠時間なのに眠れないのは困るので、せめてここに思いの丈を綴っておくことにした。この思いをなんと名付ければよいのか。やっぱり片思いか。まいったなもう。
※ちなみに写真は「我アウトするゆえに我あり」なのだがこのアウトはもちろんcoming outを指す。