お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2011年2月22日火曜日

Dracula

ここ最近、前述のVictoria朝文学の授業で、Bram Stoker の Dracula (1897) を読んでいたのだが、これがめっぽう面白い。

以前New Orleansについてのポストでも触れたが、アメリカにおけるvampire人気はけっこう凄まじい。映画Twilight Saga、テレビシリーズ True Blood (なお、両方とも撮影はわが町Baton Rougeで行われた、というか今も最新のTwilight Sagaの撮影が行われている)は言うまでもないが、StokerのDraculanには数えきれないくらいの映画のアダプテーションがあるし、vampireもののライトノベル(という呼び名が英語にないのがもどかしい)、アニメ、ゲームなどなど、vampire産業の発展はとどまるところを知らない。が、なにせsimulacraの国日本から来ましたわたくし、あらあらアメリカにもそんな文化があるのね、微笑ましいこと、でも日本のオタク文化には及びませんことよ、みたいな感じで、正直、特別な興味はなかった。

 が、いざ読み始めてみると、なるほど納得の面白さ加減で、ひさしぶりにワクワクテカテカしながら読み切った。Stokerはいちおうれっきとしたプロの作家なのだが(ちなみにStokerはIreland出身のエリートで、かのOscar WildeとともにTrinity Collegeに通い、文武両道に優れた生徒会長みたいなものをつとめ、後にはWildeの許婚を奪い取ったりしている)、小説としてのinner logicはけっこうはちゃめちゃで、おいおいさっきまでの記述と食い違うよそれ、というような瞬間がけっこうあるのだが、それでも(むしろそれゆえ、に近いのだけど)とにかくぐいぐいと読ませる勢いがある。というか要は本人がほとんど勢いだけで書いてるので、ある意味でauthorial controlの行き届いていない、無意識丸出し感が強い。しかし作者の無意識が丸出しになっているだけならそんなものは単なる自慰文学にすぎないのだけれど、Draculaのすごいところは作者の無意識が時代の無意識とみごとに混じりあってur-fantasyを作りあげているところなのだと思う。もちろんGothicというジャンル自体、この作品をrealism小説として読むことを不可能にしていて、だから多くの批評は作品の描写をsymbolicあるいはmetaphoricalなものとして捉え、作品の起源にある欲望を特定しようとするわけなのだが、作品自体(そしてDracula伯爵の造形も)があらゆる「他者(性的他者、人種的他者、階級的他者、その他いろいろ)性」をごたまぜにして一つにまとめているもので、なんらかの単一的な欲望を措定しようとする批評的目論見はたいてい頓挫させられる。が、頓挫させられると知りつつ、批評的欲望をいかんなくそそるのがこの作品の名作たるゆえんである。

特にsexuality関連の批評の数は、たぶん他のどんなメジャーな英語圏文学作品より多いのではないかと思うし、実際この作品について語る時、性に関する言及を100%避けることは不可能ではないにしても、極めて難しい。というのも、Draculaという作品自体がDracula伯爵の生殖活動/reproductionを巡る物語だからなのだが、この伯爵の生殖活動(相手の血を啜る、自分の血を送り込む)の描写が極めて「性的」なのである。が、あえて括弧に括って「性的」というのはむろん、それが果たして我々がなにをもってある行為を「性的」と見なすかに関わってくるからで、Draculaという作品の倒錯性とそれが読者にもたらす快楽は「性的」とはなんであるか、というのことを常に問いかけてくる。作品が書かれた19世紀後半というのはsexualityが言説化された時代で、それまでは単なる行為にすぎなかった「性」が、科学的、社会的、法的言説として整備され、知の対象としてsexualityというアイデンティティカテゴリーを形成するようになった、というのがFoucaultの説なのだけれど、Draculaにおける「性」の乱れはまさにこの時代のsexuality言説強化の動きと密接にかかわり合っている。

そんなわけでこの間は授業でこの作品に関してプレゼンをした。Draculaという作品自体を、無制限に自分のコピーを再生産する伯爵の肉体とのアナロジーで捉え、この作品を分析欲望を無制限に再生産する身体として論じたのだけど、タイトルは "Anal/ytic Desire: Fear and Lure of Non-genital Reproduction of Dracula"で、これがけっこうウケた。 FoucaultはThe History of Sexuality の中で、西洋社会の性にまつわるモードをscientia sexualis (science of sexuality)、東洋社会の性にまつわるモードをars erotica (erotic art)と命名していて(このFoucaultのオリエンタリズムはそれだけでもけっこうおもしろいのだが)、後者が性行為の快楽そのものの多寡に関わる知識の集積を目指すもの(カーマスートラ的な)であるのに対して、前者は性を科学的にカテゴライズしコントロールすることを目指す、としているのだけど、おもしろいことにFoucaultは、scientia sexualisというのは実は、西洋的なars eroticaの変異であって、性を言説化すること自体に性的快楽が宿る、という可能性をちらっと示唆している。そんなFoucaultに乗っかってわたしもDraculaという作品を巡る分析欲望(Analytic Desire)自体が性的欲望に備給されていて、Draculaの性について公に語ること自体が、性器結合から逸脱した性的満足(Anal/ytic pleasure)を生産している、というような論旨の発表をしてars eroticaの国から来た人の面目躍如を目指したのだが、そんな中、ここぞとばかりanalとかanusとか大声で連発して、ああすっきりした、というそんなわたしの満足が性的なものではないと、誰が言えようか。