Easterを目前にしてLSUはようやく他の多くの大学からおよそ三週間ほど遅れてSpring Breakに入ったわけだけれど、10日間の春休みは休みとは名ばかりで、大学院生にとってはひらすらお仕事の期間である。コースワークの間は授業のファイナルペーパーのドラフトの締め切りがたいてい休みの後に設定されているのでペーパーライティングで虫の息となるのが定番なのだけれど、今年はそれに加えてわたしの目の前にいま、30本のペーパーが積まれている。そう、今年からはわたしも先生として生徒のレポートのグレーディングをしなければいけないのだ。
アメリカの大学院では(学校や学部によっていろいろ条件は異なるのだけれど)大学院生が実際に学部生を教えることが半ば義務化されている。たいていの場合、Teaching Assistantshipというのを受けると、授業料が免除になったうえにお給料として生活費(ええ最低限のですけれど)が大学から支払われる。Teaching loadは大学によってまちまちなのだが、LSUの英文科では大学院生は(PhD、MFAともに)一学期に一コマ(三時間:週に一時間を三回ないし一時間半を二回)担当すればよいことになっている。英文科の学生はたいてい30人くらいのcompositionのクラス(日本で言うところの小論文なのかな)を持たされるのだけれど、わたしは去年一年はよそからお金をいただいていたので教えることはなく、今年一年ははじめてのteachingだからということで、教授の教える150人のアメリカ文学のクラスのTAをしており、週に二度は教授のレクチャーの補助、実際に生徒を目の前にして教えるのは週に一度だけで済んでいる。
週に一度だけ。週に一度、ただ一時間だけなのだ。しかしこれだけ濃密な一時間をわたしはこれまでの人生で他に知らない。もともとわたしは英語が流暢に話せるわけでもなんでもない。こちらに来て一年を経た頃には、一対一のコミュニケーションや授業でのディスカッションは形ばかりだとしてもなんとかこなせるようになってはいたのだけれど、ひとクラスのアメリカ人を目の前にアメリカ文学について英語で話し、生徒にディスカッションをさせるというのは、話が別である。個人的な会話やディスカッションでは、多少言葉がみつからないことがあろうが、話しながら英語の森に迷って出てこられなくなろうが、結局のところアイディアがおもしろければ拾ってもらえるし、ああ外国人なのにがんばっているね、と最終的にはあたたかい目で見守ってきてもらっていた。けれど教師であるということは、コミュニケーションの責任を負うことであり、それまで享受してきた社会的弱者としての特権に対する甘えが許されないということでもある。障害物競争のハードルが一気に背面跳びのバーに変わったようなものだ。
去年の8月、初めて教壇に立った日のあの戦慄は今でもけして忘れることができない。アジアから来たとおぼしき妙な英語を話すこのひとが、ああ、先生なのか、と思ってきょとんとしている30人の学部生を前に、満面の笑顔でかみしめるように自己紹介をしながら、9cmヒールのパンプスに脇の下から一滴、また一滴と汗がしたたり落ちるのをなんの誇張でもなくわたしははっきりと感じていた。アメリカの学生というのは隙あらば教師にクレームをつけて成績をあげさせようとする、というのがティーチングのトレーニングで言われた事のひとつでもあったので、とにかくなめられてはならない、教師としての立場は死守しなければならないと身を固くしていたのが最初の数週間だった。が、驚くほどにその緊張は杞憂に終わった。アメリカの学生—というかこれはおそらく保守的な南部特有のことなのかもしれないが—は教壇に立っている存在はすべからく敬うべしという教育を施されているのか、なんというか日本でわたしが見ていた(自分を含め)すれっからした学生とはだいぶ違い、なんとも素直にわたしの話をうんうんとうなずきながら聞き、なにか訊ねれば口早にYes Ma'amと言ってから答え、ディスカッションでは矢継ぎ早に手を上げて発言する。まるで軍隊さながらではないか。