お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2011年1月24日月曜日

あわわわわ

今学期はコースワークのリクワイアメントの関係上、ヴィクトリア朝の文学の授業をとっているのだが、この授業の先生、お若く見目麗しい男性なのだが(ちくしょうそんなことはどうでもいいのだ)とにかく授業のためにブログを開設し、そこにリーディング・アサインメントに対するレスポンスを書けという。それだけなら全然いいのだが、このブログをやっているBloggerというGoogleのブログメーカーをその授業ブログでも使っているので(そしてgmailのアカウントを通して投稿することになっているので)、このブログのわたしのアカウントとどうしてもリンクしてしまう。プロフィールを閲覧できるように設定すると、「あたいの夏休み」という、彼らアメリカ人にとっては文字通り意味不明な文字列が出てきて、そこをクリックするとこのブログに飛んでしまう。日本語なんだからいいじゃないかという話なんだが、ところどころに英語も混じってるし、こないだはfacebookのわたしのページに友人が日本語で書き込んだコメントを翻訳ソフトで翻訳しようとした輩もいたので、肝っ玉のちいさいわたしは耐えられない。プロフィールを非公開にすればいい話なのだが、そして今現在そうしているのだが、10人いる受講者の中でプロフィール非公開にしているのはわたしだけという状況。明らかに変なアジア人だ。また秘密のアルカイックスマイルで通すしかないじゃないか。ちなみに画像はEngland's Other Others(ヴィクトリア朝における、他者は他者でも「白人」他者の授業)と題されたおしゃれなブログのトップ画像。やだもう、先生ってばおしゃれすぎ。いやいやそうじゃない、若い先生って熱心過ぎてこういうことが起こるから困る。しかもこれまでアカウント名をうちの猫の名前でやってたもんだから、最初にサインインしたら「Nell」とかでて、誰この人状態。もうほんと、羞恥プレイもほどほどにしてくれよ。

2011年1月22日土曜日

薬考

さて、新学期がはじまり、ひとしきり友人とハグなどを交わしていると、友人のひとりが煙草をやめたんだと言う。へぇ、そうかわたし相変わらずニコレットがやめられなくて、いつ止めたの?と言うと、12月末くらいにanti-depressantを飲み始めたんだけどこれが禁煙に効くんだよ、試してみたら?ととびきりの笑顔で言われた。

日本でだって精神科(という名前がまずなんかあれだけど)とか心療内科とかは90年代以降ポピュラーになってきて(ちょうど「癒し」が流行語になったあたりと重なるような気がする)、昔のようにかかってるだけでstigmatizeされるということも比較的少なくなって薬で鬱治療する人も増えているように思うわけだが、しかしやはりアメリカ人の薬に対する天衣無縫さというのには驚かされる。わたし自身、けっこう病院にかかるタイプなので薬に対する抵抗というのは少なく、それこそ気分がどうしてもコントロールできない時にぽいっと薬を飲むことだってあるわけなので、さしてかわりはないといえばないのだが、それでもこんなにうららかに「抗鬱剤が禁煙に効くんだ♥」とは言えないだろうと思うのは、根本的には薬というのは(とくに精神科系の薬)あくまで対症療法であって治療効果はあまりのぞめないという、正しいかどうかはともかくもそんな認識があって、それでなんか薬を飲むことにどこか罪悪感があるからのような気がする。

とにかくself-control というのが信条の国だからだろうか、アメリカ人は心身的問題が起きたときにそれを薬でコントロールするということに日本人より抵抗がない、というかむしろそれをよしとする気があるようなないような(どこまでをセルフとするかというのは微妙な問題で、わたしなんか薬を飲むことが果たして「セルフ」コントロールなのかどうかわからなくてためらっちゃうんだが)。時間帯にもよるが、わりと大手テレビチャンネルでピル(しかも生理を三ヶ月に一回にするような)とかバイアグラめいたもののCMが流れるのはけっこうよくあるし、もちろんバイアグラそのものの普及率も高い。たしか初期バイアグラのCMには誰だったか、共和党の元副大統領がでていて、「この薬のおかげでまた妻に愛を伝えられるようになりました、ありがとうバイアグラ」とかそんなコピーを口にしていたというような話も聞く。最近はparty drugと一緒にバイアグラを飲むのが若者の間で流行っているようで、ナニが止まらなくて病院に駆け込むというような例も増えているとかなんとか。

話がナニよりに傾いたが、とにかくアメリカ人の薬に対する抵抗のなさというか薬に対する信頼というか、は、どこか Brave New World (Aldous Huxley の1930年代のSFなのだが、ドラッグによる社会コントロールの話で、作者の来歴とか時代背景とかいろんな意味でけっこうおもしろいのだ)を思い出させるものがある。もちろんケミカルなものを嫌う人々は薬は飲まないのだけど、そのかわりにhomeopathy系の薬というかタブレットが普通にWholefoodsに置いてあったりするわけだし、あとは薬というよりはドラッグに近い話だが、大麻の普及率の高さには目を見張るものがある。南部だからなのかアメリカだからなのかわからないけど、普通にバーなどでとくに秘密めいた感じもなく平和そうにジョイントを吸っている人を見かけるし、英文科でも実はまだけっこう使用率は高いようだ(まだ、というのはなんか大麻というのはちょっとold schoolな感じがするというか、ヒッピー的な香りがするからなのだけど)。ある友人のMFAの男の子(彼氏のルームメイトなのだが)はとても温厚でなんというかまじめそうなヴェジタリアンでアルコールさえ飲まないのだけど、趣味がケーキとかクッキーとかを焼くことだということで、わたしはその彼とお菓子作りの話に花を咲かせていたのだけど、どうも彼が作っているのは(ほぼ必ず)マリワナ入りのケーキやらクッキーやらのようで、レシピについて話していると、まずバターで大麻をいためて成分を溶かし出すでしょ、という過程がかならずある。普通にパイプで吸うのの何倍かの効果らしく、この間は彼氏の友達が空腹時に普通のブラウニーと間違って彼の特製ブラウニー食べて、そのときはよかったんだが数時間後にレストランでごはんを食べている際にブラックアウトしてしまい(ほんとに白目を向いて倒れた)、事情を察した彼氏は救急車を呼ぶこともできず必死で友人を介抱し、彼を肩に担いで帰ってからそのMFAの男の子を死ぬほど叱りつけていた。

なんのこっちゃわからなくなってきたが、だいぶ身も心もアメリカナイズされたとはいえ、脆弱な身体ゆえ、身体に入れるものについては重々用心しているので彼のブラウニーは食べていない。だいたいわたしなんかカモミールのハーブティー飲んだだけで寝ちゃうんだからそんなもん食べたらどうなるかわからない。今学期も薬をあまり飲むことなく、健康でいられますように。あ、これが達磨のお願いかなぁ。

2011年1月17日月曜日

里帰り

さて、ひと月のおやすみも今日でおわり、明日からいよいよまた地獄のような忙しい日々が始まる。忙殺される前に冬休みのことも少し書いておこう。

12月の末から2週間だけ、日本に一時帰国した。実家に残っている母と祖母のふたりがあまりにさみしそうだったのでお正月を家族と過ごす、というのが主眼だったから、あまり日本のみなさんに挨拶をする時間もなかろうと帰国のお知らせさえしなかったのだけれど、案の定2週間は息つく暇もなかった。

こんなことを言うのはばち当たりだとは思うのだけれど、帰国を決めたはいいけれどずっとなんだか複雑な気分で、しかしいざ帰ったらきっとすべてを忘れて楽しめるだろう、と思っていたのだけれど、どっこい複雑さはなかなか消えないものだったから、なんというか少しせつなかった。考えてみたらもう28なんだし、実家に住むというのに無理があるというだけの話なのかもしれないけれど、一度ひとりで暮らしはじまると、いかにプチゲットーな大学アパートとはいえスペースだけは豊富にあるから、東京の狭い家で家族と生活するのはいかんせんしんどい。かといって東京でこっちの部屋と同じような間取りで一人暮らししようと思ったら確実に15万以上はかかる。しかし所詮どうあがいても将来は研究者、なかなかそんなお金は出せそうにない。ううむ。もう東京で暮らせなかったらどうしよう、てゆうかクイーンサイズじゃないと寝られないからだにされてしまった、アメリカったら酷いひと。というのが懸念のひとつなのだった。

要するに、当たり前だけど、ここでの生活が「夏休み」なんだな、ということをもう一度改めて実感したのだと思う。いつかは終わる限定つきの生活なのだから、この生活に慣れすぎてはいけないのかもしれない。人間はひとりで生まれるわけではないのだし、家族に対する責任というものもある。どんなに長くても奨学金の契約上、4年後には日本に帰るという、いわゆる自国滞在義務もある。む。まずい、書いていたらドツボにはまってきた。

もちろんこちらでの生活が万事快調というわけではない。やっぱり日本で友人に会うと、乾いた土みたいに相手の言葉が胸に染みわたるわけで、こういう関係はたぶんこちらでは築けないたろうな、とも思った。恋人関係というのは互いに接近を求めて妙な力学が働くので、案外どこでもなんとかなるもののような気もするのだが(と、これだってばち当たりかもしれないが)、友人関係というのはそういう接近の力学が働かないので、ごまかしが効かない。恋人関係というのは唯一無二だ、という風に思いこみがちなのだけれど、どっこい唯一無二なのは友人関係の方で、というのも、恋人というのは(通常は)まずコンセプトとして唯一のポジションとしてあるもので、ある意味ではその空座に誰が座るかということなのだと思うのだけれど、友人というのはそのポジションが複数的であるがゆえにもっとspontaneietyを要求するものなのかもしれず、この年になってふりかえって見れば、恋人は変わっても友達はいつもそこにいてわたしの行方を照らしてくれてるわけなんだよな、なんてことを家族を連れてドライブした先の観音崎灯台で思ったわけだった。

話が錯綜してきたが、要は持ち前の過剰適応精神が災いして、現状を肯定しようと躍起になって日本での生活を否定しようとしているだけなのかもしれない。うん、たぶんそういうことなのだ。少しはこちらでの暮らしにも慣れてきたのだし、もう少し大人にならなければね。というわけで、浅草寺で買ってきた恒例のミニだるま(Japanese voodoo doll という説明つきで友人たちにあげたら大変好評だった)を前に、少し大人な抱負とお願いごとを考えているのだけど、まだ決めかねている。