お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2011年1月17日月曜日

里帰り

さて、ひと月のおやすみも今日でおわり、明日からいよいよまた地獄のような忙しい日々が始まる。忙殺される前に冬休みのことも少し書いておこう。

12月の末から2週間だけ、日本に一時帰国した。実家に残っている母と祖母のふたりがあまりにさみしそうだったのでお正月を家族と過ごす、というのが主眼だったから、あまり日本のみなさんに挨拶をする時間もなかろうと帰国のお知らせさえしなかったのだけれど、案の定2週間は息つく暇もなかった。

こんなことを言うのはばち当たりだとは思うのだけれど、帰国を決めたはいいけれどずっとなんだか複雑な気分で、しかしいざ帰ったらきっとすべてを忘れて楽しめるだろう、と思っていたのだけれど、どっこい複雑さはなかなか消えないものだったから、なんというか少しせつなかった。考えてみたらもう28なんだし、実家に住むというのに無理があるというだけの話なのかもしれないけれど、一度ひとりで暮らしはじまると、いかにプチゲットーな大学アパートとはいえスペースだけは豊富にあるから、東京の狭い家で家族と生活するのはいかんせんしんどい。かといって東京でこっちの部屋と同じような間取りで一人暮らししようと思ったら確実に15万以上はかかる。しかし所詮どうあがいても将来は研究者、なかなかそんなお金は出せそうにない。ううむ。もう東京で暮らせなかったらどうしよう、てゆうかクイーンサイズじゃないと寝られないからだにされてしまった、アメリカったら酷いひと。というのが懸念のひとつなのだった。

要するに、当たり前だけど、ここでの生活が「夏休み」なんだな、ということをもう一度改めて実感したのだと思う。いつかは終わる限定つきの生活なのだから、この生活に慣れすぎてはいけないのかもしれない。人間はひとりで生まれるわけではないのだし、家族に対する責任というものもある。どんなに長くても奨学金の契約上、4年後には日本に帰るという、いわゆる自国滞在義務もある。む。まずい、書いていたらドツボにはまってきた。

もちろんこちらでの生活が万事快調というわけではない。やっぱり日本で友人に会うと、乾いた土みたいに相手の言葉が胸に染みわたるわけで、こういう関係はたぶんこちらでは築けないたろうな、とも思った。恋人関係というのは互いに接近を求めて妙な力学が働くので、案外どこでもなんとかなるもののような気もするのだが(と、これだってばち当たりかもしれないが)、友人関係というのはそういう接近の力学が働かないので、ごまかしが効かない。恋人関係というのは唯一無二だ、という風に思いこみがちなのだけれど、どっこい唯一無二なのは友人関係の方で、というのも、恋人というのは(通常は)まずコンセプトとして唯一のポジションとしてあるもので、ある意味ではその空座に誰が座るかということなのだと思うのだけれど、友人というのはそのポジションが複数的であるがゆえにもっとspontaneietyを要求するものなのかもしれず、この年になってふりかえって見れば、恋人は変わっても友達はいつもそこにいてわたしの行方を照らしてくれてるわけなんだよな、なんてことを家族を連れてドライブした先の観音崎灯台で思ったわけだった。

話が錯綜してきたが、要は持ち前の過剰適応精神が災いして、現状を肯定しようと躍起になって日本での生活を否定しようとしているだけなのかもしれない。うん、たぶんそういうことなのだ。少しはこちらでの暮らしにも慣れてきたのだし、もう少し大人にならなければね。というわけで、浅草寺で買ってきた恒例のミニだるま(Japanese voodoo doll という説明つきで友人たちにあげたら大変好評だった)を前に、少し大人な抱負とお願いごとを考えているのだけど、まだ決めかねている。