お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2011年7月25日月曜日

Los Angeles, CA (3)

消費の話に傾いたが、さてしかしLAを発ってひと月が過ぎようとする今日この頃、なつかしくあの一週間を振り返ってひとことであの街を形容するならなんなのか、と思えばそれはやはり、因果なまでに果てしない欲望なのである。都市というものが欲望によって駆動している、というのは自明も自明なのだが、世界屈指の消費都市に生まれ育ち、若さにまかせてそれなりには都会的欲望というものに触れてもみてきたというにも関わらず、LAという街の欲望のエネルギーにはどうにも驚かされて仕方がなかった。

ひとつにはそれは、この街の主要産業がエンターテイメントだということがあるのだと思う。東京もニューヨークも、もちろん都市は都市でそれなりに欲望が渦巻く様子は容易に観察され得るのだけれど、蕩尽的欲望のみならず、それを生み出し支えコントロールする日常の冷静ですこし気怠い存在感というのが常にどこかには感じられるわけなのだが、LAという街はなんというか、ハレとケでいうところのハレが万年続いていてケが存在しないように見えるのである。もちろんそれはわたしが旅行者で、ハレの場にばかり足を運んでいた、というのも理由としては大きいのだろうけれど、しかしそれにしても、たとえば同じ観光で行ったNew Yorkでは観光の途中、道行く人にある種の生活感を感じることは多々あったのだけれど、LAというのはレストランのウェイトレスやスーパーのレジ打ちのおにいちゃんでさえ俳優志望、モデルの卵だったりするわけで、なんというか人々が皆、LAという書き割りの舞台の上で常に誰かに見られていることを意識しているようなそんな感じがある。考えてみればそれも当たり前といえば当たり前で、街のなかにかの有名なHollywoodやBeverly Hillsがあって、映画スターが普通に暮らしているわけだから、日常とスペクタクルのボーダーが限りなく曖昧な街だということなのかもしれない…などとハリウッド・ビバリーヒルズのバスツアー(オープンエアで気持ちがいいことこの上なく、2時間ほどかけて街をじっくり回りながらいろいろ説明してくれるので楽しい。バスはチャイニーズシアターの前から出ている。ひとり$35くらいだったと思うが、まちがいなくお値打ち。ただし日差しが半端ないので帽子が必須)でセレブの家々などを眺めがなら思った。ちなみに写真は故マイケル邸。

しかしそんなふうに欲望が渦巻くどころか逆巻いて天を目指す天使達の街Los Angelesが、その欲望の濃度と強度にもかかわらず信じられないほど居心地がいいのは、実は地形的な要因が大きい気がする。山と海に挟まれた細長いこの街は(日本で言うと神戸を思い描くとよいと思うのだが)都市にありがちな閉塞感というものが皆無である。まずビルがない。いやもちろんないわけではなくてよくドラマなどで見るビル群というのは間違いなくダウンタウンに存在はしているのだけれど、それ以外の場所にはいわゆるスカイスクレイパー的な高層ビルがなく、高いビルでも10階立て程度、しかもビルとビルの間にそれなりに距離があるので、上を見上げるまでもなく大きな空にカリフォルニアの太陽が燦々とさしているのが常に感じられるし、フリーウェイからはほぼ常に山が見える。

上の写真のGetty Museumはその意味でLAの象徴的存在のようで、小高い丘(というか山)の上にそびえ、Los Angelesの街と太平洋を見下ろす私設美術館である。この美術館はJ Paul Getty という、ひとときはギネスブックにも載ったほどの大金持ちの美術コレクターの死後、10億ドルをかけて立てられたというものなのだが、コレクション自体よりもなによりも、個人の資産でこれだけのことが可能なのだということを誇示するようにどこまでも続く白い石造りの建築が有名で、なにしろ入場が無料(パーキング代が入場料になっているとのこと)ということもあり、ピクニックにはもってこいの場所である。ちょうど A Revolutionary Project: Cuba from Walker Evans from Nowという展示がやっていて、Cuba人写真家たちの「nationalisticな」とされる写真と、「Cubaの現状をえぐる」とされるアメリカ人写真家たちの写真のコントラストが強調されていて、いやいや資本主義の髄を集めたようなこの美術館でこの展示かぁ、と若干苦笑いをしなくもなかったが、でも公平にみてなかなか面白い展示だった。Evansというのは恐慌期のアメリカ農村部(特に南部)を記録的に描写した写真(Straight photographyと呼ばれるものだが)で有名で、その写真がFSA ProjectというNew Dealの一貫である農家救済政策に資したことからその政治性を話題にされることもあるのだが、実際の彼の写真はどちらかといえば人間の身体を含めすべての対象を抽象的なフォームに還元して捉えるある種のaesthesicism のほうが際立っている。妙なsentimentalismに淫することなくかといってただ冷徹に対象を記録するだけでもなく、対象の線的な美しさにEvansが芯から魅せられているのがわかるようで、やっぱりいいなぁと思った。考えてみれば美術館に行ったのは実に久しぶりで、というのもBaton Rougeには美術館とか画廊とかそういういわゆる文化的なものが全然存在しないからなのだった。自分はそういったものには別に未練はないと思って無頼を気取ってきたけれど、いざ久しぶりに絵とか写真とかそういったものに触れると、ああやっぱりたまにはこういう活動が恋しいものなんだな、と思う。MOCA (The Museum of Contemporary Art) では実にLAらしくstreet art展が催されていたようで、最近BanksyExit Through the Gift Shopというドキュメンタリーがけっこうおもしろかったので行ってみたかったのだけれどこれは時間がなくて行けなかった。LAではコンテンポラリーが主流で、いわゆる古典絵画の展示が少ないのが弱みだと友人は言い、わたしもあまりこてこてのコンテンポラリーとかコンセプチュアルアートは苦手なのだが、いやはややっぱりLAに来ると、そういうのも見ておきたいものだと思うのだ。次回は是非行こう。