さてここ二週間忙しすぎて書く時期を逸してしまっていたのだけれど、去る五月五日はアメリカではCinco de Mayoと呼ばれる祝日であった。友人Yがふざけてチンコデマヨと呼んでいたのを真に受けた素直なわたしは喜び勇んでチンコデマヨ、チンコデマヨ、と連呼していたのだが、ほんとうの読み方はシンコデマヨに近い(なぜかチンコの日本語の意味を知るPJが冷静に、おやめなさいお嬢さん、と注意してくれた)。スペイン語でそのまま五月五日を意味するこの日は、メキシカン・オリジンを持つアメリカ人たちが自分達の文化起源を祝う祝日である。
Cinco de Mayoを目前に控えた五月四日、最後の授業でわたしはGloria Anzaldua(アンサルドゥーアと読む)の "How to Tame a Wild Tongue" というエッセイを教えた。AnzalduaのエッセイはChicano/Chicanaのアイデンティティにとっていかに、Chicano Spanishという言語が重要であるかを雄弁に語る(雄弁にという言葉がクリーシェではないことをこんなに力強くかたるエッセイも中々ないように思う)。恥を忍んで言うと、たとえばChicano Literatureという言葉を聞いた時に、アメリカ文学研究専攻でありながら、…メキシコ系文学、ですよね?というくらいの雑な理解しかなかった私にとって、これをCinco de Mayoの前日、最後の授業で教える、というのはけっこう大きな感情的意味があった。一言で言えば、Chicano/Chicanaというのは、メキシコ系アメリカ人を指す言葉である(Chicanoの語源には諸説あるが、Mexicanoが変化してチカーノになった、という説が今のところは有力らしい)。もともとは貧困層のメキシコ系アメリカ人を揶揄して指すものだったChicanoという言葉をメキシコ系アメリカ人が自分達の文化的アイデンティティを示すために自ら使いだしたのは、1940年代にはじまり、1960年代後半に最盛期を迎えたChicano Movementという、一種の公民権運動の中でのことである。この運動の中で、Chicanoという概念はメキシコ人でも、アメリカ人でもない、二つの(あるいはそれ以上の)文化が交差したところに産まれるハイブリッドなアイデンティティを指すようになった。
テキサスに生まれ育ったAnzalduaは、状況に応じて多くの言語を使いわける。スタンダード・イングリッシュ(いわゆる「標準英語」)、労働者階級の使う英語スラング、スタンダード・スパニッシュ、スタンダード・メキシカン・スパニッシュ、北メキシコのスペイン語方言、そして中でも彼女がもっとも自分にとって身近に感じるとする、Chicano SpanishとSpanglishとよばれるTex-Mexである。Chicano SpanishとTex-Mex(この二つは厳密には異なるものだが)は、英語とスペイン語、それぞれのスラングや方言が入り交じった言語だ。アメリカで育つメキシコ系の人々は、北アメリカに特有のアクセントでスペイン語をしゃべるし、スペイン語に影響されたアクセントで英語を話す。二つの(そしてその多くのヴァリエーションの)言語は、どちらもChicano達の人格形成期に大きな影響を持つ。家ではMexican Spanishが使われる事が多いし、学校や公的な場では英語が使われる。自己というのは多様な層からなるもので、公的な場で振る舞う自分も、家庭内の自分も、また友人、恋人に対する自分も、すべてが自己意識の一部分を担うもので、そのどれかの状況で使われる言語のひとつだけをとりだして「自分の言語」選ぶのは不可能である。だからこそ、Chicanoの言語は、多様な言語を混ぜ合わせたものとして産まれた。Anzalduaの文章は、それゆえ、スペイン語話者ではないわたしにとっては時に難解を極める。たとえば、彼女はChicano Spanishに関してこう書く。
But Chicano Spanish is a border tongue which developed naturally. Change, evolución, enriquecimento de palabras nueva por invención o adopción have created variants of Chicano Spanish, un nuevo, lenguaje. Un lenguaje que corresponde a un mode vivir. Chicano Spanish is not incorrect, it is a living language.
それにも関わらず、彼女の文章が異様に心に響くのは、それが複数の言語に囲まれて生きる人間のアイデンティティ形成の複雑さを物語るからである。Anzalduaは言う。
Chicanas who grew up speaking Chicano Spanish have internalized the belief that we speak poor Spanish. It is illegitimate, a bastard language. And because we internalize how our language has been used against us by the dominant culture, we use our language differences against each other. Chicana feminists often skirt around each other with suspicion and hesitation. For the longest time I couldn't figure it out. Then it dawned on me. To be close to another Chicana is like looking into the mirror. We are afraid of what we'll see there.
中学から英語を学ぶ事が義務づけられていながら、日常では英語にさらされずに生きることができる国で育ったわたしがAnzalduaの描く二言語状況に共感するというのもおかしな話だが、standardな言語に照らした時、自分の言語がどう響くかという問題は、外国人として英語でアメリカ人にアメリカ文学を教える時に、つきまとうもののひとつだ。わたしはどれだけこの言語を理解できているのか、細かなニュアンスは、スラングは、果たして理解できているのか、わたしの英語は相手に完全に届くのか。どれだけ練習を積んでも、どれだけ大丈夫だと言われても、不安は常に残る。Standard Englishに自分の言葉を照らしあわせ、時には金縛りにあったように言葉を失いそうになることもある。ひとつひとつの言葉の発音を確認するように、授業の前には自宅で自分の書いたスクリプト―実際の授業でそれを使うことはないにしても―を読み上げる。そうやって生徒の眼差しに臆することのないように、英語で自分を作り上げる。大丈夫、わたしの英語は少しあなたたちとは違うかもしれないけれど、わたしを教師として信頼してほしい、わたしはこの作品を理解しているし、あなたたちとそれを語り合ってお互いに理解を深める準備もできているから、と、片時も崩さない笑顔で、常に語りかける。
言語とアイデンティティというのは、深くきり結ばれている。
So, if you want to really hurt me, talk badly about my language. Ethnic identity is twin skin to linguistic identity--I am my language. Until I can take pride in my language, I cannot take pride in myself.
わたしにはChicano SpanishやTex-Mexに相応する、日本語と英語を合せたJapanglishのような言語はないので、英語で話すときは知らぬ間に、英語環境内でのアイデンティティのようなものを構築しているように思える。ひとつには日本語で話すときのようなこざかしさがわたしの不完全な英語では再現できないから、というのもあるけれど、英語のわたしは、日本語のわたしより、よく笑い、まっすぐで、表情も豊かだ。妙な話で、日本語で話していると(時に知らないひとと話している時)よく痰が絡むのだけれど、不思議なもので、英語でこれが起こった事はなくて、たぶんそれには喉のどの部分を使うかというのが関係しているのだとは思うけれど、同時にまた英語で話すときのほうが、肉体的はある種の文化的拘束から自由であるように感じる。けれど、しばらく毎日英語で話していると、日本語の自分が懐かしくもなる。下品で、賢しらだっていて、自意識過剰だけれども、同時にどうしようもなく言語そのものに対して真摯な自分が、ああ、あの人はどこにいったのかな、とふと不安になるとき、カリフォルニアにいるYと思い切り日本語で話したり、またこうやってブログを書いたりする。それは疑いようもなく、わたしの大切な一部である。だから、日本語のわたしを知ってもらうために、授業の最後には(この間のポストを書いた時から智恵子抄がやけに頭に残っていたので)、光太郎のレモン哀歌を日本語で朗読した。我ながら臭いとは思ったけれど、それは、恥ずかしいので南部訛を抑えることもあるという生徒達に、彼らの言語がどれだけわたしにとって柔らかく美しく響くかと言う事を、知ってもらうためでもあったと思うし、最後に拍手をもらった時には、やっぱりこうやって教えることができるのは幸せだな、と思った。
[Taco Saladのレシピ]
正直言って、アメリカ版のメキシコ料理であるTex-Mex(テキサスにはメキシコ系アメリカ人が多いので、独特の食文化が発達している)は、なんだか脂っぽいし重たいしで苦手意識があったのだけれど、Anzaluduaのエッセイを読んでなんだかしみじみTex-Mexのもつ文化的意義のようなものに敬意を表したくなったので、Cinco de MayoにはTex-Mexを自分で作ってみた。とはいえ申し訳ないがやはりTex-Mexの基本はメキシカンに大量の肉やチーズ、サワークリームを追加したもので(タコチップにサルサ、チーズ、ワカモーレ、タコミート、サワークリームをのせたナチョスなどはTex-Mexの代表で、メキシコではあまり食べないそうだ)、三十路を目の前にした身体にはしんどいものがあるので、ここはひとつTex-Mexの中でも比較的ヘルシーなTaco Saladを作ることにした。いろいろネットでレシピを検索したのだが、驚くべきことに多くのレシピが材料に「サラダドレッシング:1本」と明記しているのがそれにはさすがに腰が引けて、このレシピでは濃い味のタコミートでほとんどドレッシングいらずのサラダを実現している。材料は4人分だがいつもどおりPJとふたりで完食した。見かけはいまひとつですが、おいしいです。
☆アイスバーグレタス 小1玉
☆black bean salsa (またはふつうのサルサ)1カップ
☆トマト 2つ
☆オリーブ 5つ(なくても可)
☆トルティーヤチップ 好みの量(多め:袋1/3くらいがおすすめ)
☆シュレッデッドチーズ 1/2カップ(わたしはメキシカンミックスを使っています)
☆玉ねぎ 1/2個
☆にんにく 1かけ
☆ひき肉 200g(わたしはここではground turkeyを使っていますが、beefでももちろん可)
★オニオンパウダー 小1
★チリパウダー 小2
★パプリカ 小2 (あればスモークドパプリカ)
★クミン 小1
★カイエンヌペッパー 小1/2から1
★ガーリックソルト 小1 -2(味を見ながら)
★砂糖 大1/2-1
(上記★はタコシーズニング大1から2でも代用可)
◎シラントロ ひとにぎり
◎アボカド ひとつ
◎グリークヨーグルト 1/3カップ(またはvegenaise 大2)
◎ライム 1
◎蜂蜜 大1
◎ガーリックソルト 小1/2-好みで
◎タバスコ 好みで
(上記◎はアボカドドレッシング用。市販の好みのドレッシングで代替化)
①たまねぎ、にんにくはみじんぎり、トマトは8mm各のダイスに。
②フライパンにオイルを熱してにんにく、たまねぎの順に炒める。
③両方とも透明になったら(またはうっすら色づいたら)ひき肉をいれ、さらに炒める。色づいてきれいにほぐれるまで。
④シーズニング(★)を順に加えていく。これは好みなので(そして完全に上の分量も感覚なので)味を見ながら。サラダのトッピングなので辛目&濃い目がおいしい。
⑤トマトの半量(一つ分)を加え、さらに炒める。トマトの水分が完全に飛ぶまで。
⑥アイスバーグレタスは粗めの千切り、オリーブはうすぎり、チップスは袋のなかで粗く(あくまでとても粗く)くだく。
⑧ドレッシングを作る。シラントロは細かいみじんぎり、アボカドは身をくりぬいてフォークの背で潰してクリーム状に。ヨーグルトその他の材料を混ぜ合わせる。
⑨大きなボウルでアイスバーグレタスと残ったトマトのダイスを和える。その上にサルサ、チーズ、⑤のタコミート、チップス、オリーブを順番に乗せていく。
⑩アボカドドレッシングを添えて、それぞれとりわけて、ぐちゃぐちゃに混ぜて食べる。
[Cevicheのレシピ]
セビチェ、と読むこの料理はTex-Mexではなくて普通のメキシカンなのだけれど、たまに無性に生魚が食べたくなるわたしにとって救世主ともいえる料理である。ただし大量のレモンおよびライムを絞ることになるので、ある意味ではレモン哀歌な料理でもある。レストランではけっこう値段が張るのにおさらにちょこっとしか出ないけれど、自分で作ればこれでもかというほどお腹いっぱい食べられます。あとやっぱり見た目がとてもきれいで夏にぴったり。
☆ティラピアなど、白身の魚 400g
☆レッドオニオン 1/2個
☆シラントロ ひとにぎり
☆serrano pepper 2つ(またはjalapeno 1つ)
☆トマト 小1個(できればromanoなど、水分少なめのもの)
☆red (yellow, orangeでも可) bell pepper 1つ(省略可)
☆にんにく 1かけ
☆しょうが 1かけ
★レモン 2つ
★ライム 10個
★すし酢 大2
(★柑橘類の絞り汁と酢を合せて250ccになるように。わたしはレモンの酸味が苦手なのでライムをたくさん使います。香りがよいです。お酢は本来なら使いません。)
☆蜂蜜 大1-2
☆塩 小1
☆昆布茶 小1(なければ塩をすこし増やして)
☆カイエンヌペッパー 好みで
①レッドオニオン、シラントロ、serranoまたはjalapenoはすべてみじんぎり。しょうがとにんにくはすりおろす。トマトは8mm角のダイスにして、種を取り除く。bell pepperも同サイズのダイスに。
②★をすべて絞り、蜂蜜、塩、昆布茶、カイエンヌペッパーで調味。
③魚は1cm各のダイスに。骨も皮もすべてとってあるものをつかうこと。
④ガラスの器など、酸化しない容器に①から③をすべていれ、混ぜ合わせる。冷蔵庫で2-3時間マリネする。途中でかき混ぜて、魚の断面がすべてマリネ液で覆われるように。ピンクがかった魚が白くなれば食べごろ。邪道だが食べる時に数滴しょうゆをたらしてもよい。
そんなこんなで、今年も無事にアカデミックイヤーが終わり、ついにまた夏休みがはじまった。San Franciscoで行われるAmerican Literature Associationの学会で発表をしてから、友人Yの待つLAにしばらく滞在して、6月には日本に帰る。大切な人たちに、それから日本語の自分自身に会える、わたしにとってはかけがえのないひと月である。なので多少髪の毛が伸びすぎていてポニーテールにしていてアメリカのアジア人みたいになっていてもいじめないでほしいと思う。わたしだって前髪作りたいけど、こっちの美容院、どんなことになるか恐ろしくてまだ行ってないんです。だってみんなすげぇぱっつんなんだもん…