お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2010年11月27日土曜日

Twitterにおける自意識の変容

アメリカに来てからこのかた、ほんとにみんなfacebookを鬼のように使っているので、これまで文学的自意識によって遠のいていたsocial network系のサイトに触れる機会が多少増えたのだが、ひょんなことから昔付き合っていた人のtwitterアカウントに遭遇し、そのあまりの自意識の丸投げっぷりにしばし近代的自我の混乱をきたした。

facebookアカウント(facebookは基本的に本名でやる)にリンクが貼ってあるということは匿名性の保証がすでにないということだと思うのだけど、にもかかわらず、え、そんなこといっちゃう?え、まじで?みたいなこと(わたしとの過去の関係も含め)を一日5回くらいの頻度でtweetしているではないか。twitterというのはstream of consciousnessを通り越してautomatic writing、というか自己検閲の彼岸なのか。で、いやいやこの人だけに違いない、人間そんなに自意識から簡単に逃れられるもんじゃないよ、と思って念のため有名人のtwitterを確認したらやはり自己検閲の敷居の低さはある程度共有されるものだった。ようするに、他人に見られる存在としての自己の公共性みたいなもの(芸能人てとりあえずそのembodimentだと思うのだけど)、およびその抑圧が限りなくゼロに近づいているようなのだ、twitterという空間では。てゆうかそれが眼目なのか。ある種のvulnerabilityを通した、絶え間ない自己検閲からの自由というのが。

こんなことブログが出来たころから言われてることなのかもしれないけど(と、わたしなんてネット的にsocially awkwardでsocial network siteもブログも処女みたいなもんだからいちいちこうやって自己検閲してしまうのだけど)、ネット空間における自意識の変容というのは凄まじいものがある。昔は「ヴァーチャル/匿名だから言えること」だったのかもしれないが、ネット空間におけるvirtualityというものが言説として確立されたいま、ネット空間上でした言動をactualな世界におけるその人と繋げるのは粋じゃないことみたいに見なされているわけなの?だからみんなあんなに自由なの?恥ずかしいと思うほうが恥ずかしい、みたいなこと?しかしもちろんわたしもこのブログを始めたことによってだいぶ自意識の閾を下げつつあるので、twitterを始めるのも時間の問題かもしれない。ええ、うそ、やだ、そんなこと…やっぱできないよ、とネット処女としては頬を染めるのであった。