お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2012年3月18日日曜日

St. Patrick's Day




こちらに来る前にはリースというのはクリスマスの為に飾るものだと思っていたのだけれど、アメリカの玄関というのは年がら年中ではないにしろ、けっこう驚くほどの頻度でwreathで飾られている。1月中頃、ホリデイシーズンを過ぎてもまだあちこちの家の玄関先に色とりどりのリースが掛かっているので、ああこりゃ松飾りを外し忘れたようなもんなのかな、いかんいかん、福を逃がしますよ、と思っていたら、PJがよくリースの色を見てご覧なさい、と言う。紫、金、緑。あ、これはMardi Grasカラーじゃないか。ルイジアナではクリスマスとニューイヤーを過ぎると人々はMardi Grasの準備に忙しい。玄関先も当然Mardi Gras用のリースで飾らなければ気が済まないのだ。さてMardi Grasも終わって、じゃあいよいよリースを外す頃かしら、と思ったら、今度は家々の玄関先が明るい緑のリースで飾られてる。リースは元気に育った庭いっぱいのクローバーとともに南部の光に照り映えて、そう、三月のお祭り、St. Patrick's Dayの準備が始まっているのである。

3月17日にはアメリカ中の多くの大都市でパレードが行われているはずなのだけれど、実は普通南部の中小都市ではSt. Patrick's Dayはそこまでメジャーなお祭りではない。が、Baton RougeではMardi Grasの時と同様、爆音のダンスミュージックとともにフロートによるパレードが二時間も三時間も続く。なぜフランス・スペイン系の影響の強いルイジアナでこのアイルランド系のお祭りがこうも盛大に行われるかというと(ちなみにアイルランド系移民はBoston や New Yorkを初めとする東海岸に多い)、それはこのお祭りがカソリック由来のものだからなのである。Mardi Grasの時にも書いたけれど、ルイジアナはプロテスタント色の濃い南部で唯一ともいえるカソリック州。これがカソリックの特徴だと一般化するわけではけしてないけれど、わたしがこの地で触れたカソリックというのは、教義・典礼的には大変厳しいのだがそれを相殺するかのごとくひとびとの日々の生活は(とりわけプロテスタントのそれに比べ)めっぽう享楽的でかつ情熱的なのである(…やっぱりでもこれってカソリック全般に言えることなのではないかという疑いが頭をよぎるのは同じカソリック系の中南米およびイタリアの人々の性的おおらかさによるのだが)。St. Patrick's DayはMardi Grasの翌日のAsh Wednesdayから始まり四月の謝肉祭までの節制の日々、レントにあって唯一飲めや歌えやが公に許される日とあって、人々はまたこれでもかというほどに乱れ狂う(ちなみにそれなりにレントにまじめに取り組んでいる人たちもいるのだなと感じたのはAsh Wednesdayのその日、キャンパスを歩いていたら、いかにもソロリティの女の子らしいブロンドちゃんがiPhoneを片手に激怒していて、いったいどうしたのかと耳をそばだてたら、Ash Wednesdayに肉を食べるなんてほんとに信じらんない、わたしたちの関係を考え直したいわ、などと言っていたときだったのだが、まぁ実際、大抵のひとはほとんどレントなど気にしていなさそうだ。要は単に騒ぎたいんです)。

おそらくこれはMardi Grasを擁するルイジアナならではの現象なのだが、あいかわらずパレードではフロートの上の人々が緑色のビーズの雨を降らせる。ビーズだけではなく、ビール用の緑のコップや上の写真のようなパンツ、leprechaunと呼ばれるアイルランド民話に出てくるキャラクターをかたどった奇妙なマスコットなどが雨霰のごとく降ってくる。その中に身の丈60cmほどの兎のぬいぐるみがあり、これはパレードで約10体しかないというラッキーアイテムなのだけれど、ありがたいことにパレード最前列で友達と踊っていたらなぜかおじいちゃんがフロートから身を乗り出してわたしに手渡してくれたので、1歳の娘のいる友人にプレゼントした。パレードが終わる頃には左の写真のように緑のビーズで身動きがとれなくなり、周りのひとに手伝ってもらわないと抜けない始末であった。

論文採用のお祝いにとパレードルートの周りに住んでいるルイジアナネイティブの友人が大きな鉄鍋でジャンバラヤを作ってくれたので、みんなで乾杯した。が、パーティが始まって一時間も立つ頃にはみんなぐでんぐでん(なにしろアイルランドのお祭りだからということで半端ではない強さのお酒が振る舞われる。もちろんわたしは相変わらずビール一杯くらいしか飲めないので事なきを得たが、)で、気づけばホストである友人は数人の女子とベッドルームに消え、ありがとうを言ってPJと家路につこうと思ったら、ベッドルームの前までいったPJが、あ。これは。入っちゃだめだわ、すごいことになってる。と言っていたので、中で何が行われているかは恐ろしくてのぞけなかった。どんだけだい、と思いながらPJ宅まで歩いているとそこかしこでパーティミュージックの中、パトカーの音がこだましていた。全て真っ昼間に行われているのだからほんと、どんだけだよルイジアナ。

[Pistachio Cookiesのレシピ]
そんなわけでわたしもなにかパーティに緑色のものを持って行こうと、今回はピスタチオをベースにしたお菓子を二種類焼いてみた。いつものごとくタルト生地を余らせていたので、ひとつはピスタチオのタルト、それからもう一つはPJのお母さんのレシピによるピスタチオのクッキーである。実はタルトの方もお母さんレシピに想を得て、いつものアーモンドクリームにフードプロセッサーで粉にしたピスタチオとフェンネルシード、アーモンドエッセンスを混ぜただけなので、今回はクッキーのレシピだけ(タルトは写真のようにSt. Patrick's Dayのエンブレムであるshamrockをかたどって粉砂糖でデコレーションしてみた。四葉のほうが縁起がよかろうと思ったが実際にはクローバーの三つ葉がholy trinityを象徴しているそうなので、三つ葉が基本だそうです。ふむふむ。切るときれいな緑色です)。アメリカレシピだけにその大量のバターと砂糖の量に腰が引ける方もおられるかとは思いますが、大量に焼けるので日に1枚、2枚食べる分には問題はないはずです。お味のほうは太鼓判。ほんとうにおいしかったです。

☆発酵バター 250g
☆砂糖 250g
☆小麦粉 250g
☆ベーキングパウダー 小1
☆塩 小1/2
☆ピスタチオ 100g
☆たまご 1つ
☆アーモンドエッセンス 小2
☆ライムの皮をおろしたもの ライムひとつぶん
☆フェンネルシード 小2

①ピスタチオは飾り用少々を残してフードプロセッサーで細かい粉にする。
②オーブンは180℃に余熱。
③バターを室温に戻し、電動泡立て器でクリーム状にする。
④砂糖を③にまぜこみ、さらに電動泡立て器で滑らかなクリームになるまでまぜる。
⑤卵を4度にわけて④に加える。そのたびに電動泡立て器を使うこと。分離しないように。
⑥アーモンドエッセンス、ライムの皮、フェンネルシードをゴムベラで混ぜる。
⑦⑥に塩、小麦粉、ベーキングパウダーをふるいいれ、ゴムベラで粉っぽさがなくなるまでまぜる。
⑧ピスタチオの粉もさっくりとまぜこむ。
⑨天板にオーブンシートをしき、生地を2cmくらいのボールにしてのせ、手のひらで抑えて平たくする。飾りのピスタチオを乗せる。焼き上がると生地が広がるので生地と生地の間を最低1cmは空けること。わたしはこの分量で直系5cmくらいのクッキーが40枚強焼けたので、一度に天板に全てに乗せるのではなく、3, 4回にわけて焼く。
⑪10分くらい焼いて、うっすらと焼き色がついたらオーブンからだしてオーブンシートごとクッキークーラーにうつし、粗熱をとったら召し上がれ。しかし個人的には冷蔵庫で冷やしてからの方がフェンネルシードやピスタチオの香りがたっておいしかったです。

あいかわらずセブンティーズなルイジアナの人々はお祭りになると外でにこにこと煙草代わりにポットをたしなむのですが(違法なはずなんだけどなぁ…)、大麻というのは味覚をふくめいろんな感覚を強めるそうで、近所のおじさんやおばさんもわたしのクッキーとタルトを食べながら、ああおいしい、こんなにおいしいお菓子ははじめて!と言ってくれたので、どうかルイジアナの民の快楽に貪欲な罪深さを許してくださいと、抜けるような青空にお祈りした。

2012年3月15日木曜日

Turnip

アメリカに住んでいて食生活的に困ったことはこれまで幸いあまりなのだけど、日本で作っていたレシピノートのほとんどがこちらにきてあまり役に立たないのもまた事実である。それというのも日本食でよく使われる野菜の多くがアメリカ南部では手に入らないのだ。茸類に関して言えばmashroomやportobello(かなり大きくて肉厚なきのこ、グリルに最適)、oyster mashroom (舞茸のような見た目なのだけどかすかにたしかにオイスター的な香りがして、こりこりとした独特の食感。炒め物、煮物にするとかなり美味)などがあるし、しいたけも高くて薄っぺらいし香りがないがshiitake mashroomとしてWhole Foodsにはいちおう売っているのでまぁよいのだけれど、牛蒡や蓮根、筍、さやえんどう、普通サイズの茄子、普通サイズの胡瓜などなどに関してはどうにもよいものが手に入らない。食べなければ死ぬというほどのものではないし、郷に入れば郷に従えが信念のわたしとしては、まぁ他においしい野菜があるからいいじゃないの、と思ってかれこれ一年半になったわけだけれど、先日(というか冬休み)思わぬところで故郷の味を発見して、自分が日本の味にけっこう飢えていたのだということに気づいた。

写真の野菜はturnipとよばれる根菜である。わたしが初めてturnipという言葉を目にしたのはErskin Caldwellという作家の作品、Tabacco Roadを読んだ時だった。1932年に出版されたこの小説は大恐慌時の南部、Georgiaを舞台にいわゆるwhite trashと呼ばれる極限的に貧しい(そしてそれがゆえに教育も受けていない)白人の経済的にも感情的にもモラル的にも破綻した生活を描いた作品なのだが、その中で主人公のJeeter Lester(もしくはその父親、記憶はすでに曖昧である)が好物であるturnipを隣人宅から大量に盗んでそれを生のまま貪り食い、壮絶に腹を下すというシーンがあった。それ以来なんとなくturnip=下痢のもとというイメージが染み付いて、店で見てもおそろしやおそろしやと素通りしてきていたのだけれど、前述のMayo Clinicの料理本にturnipを使った料理が掲載されていたので先日勇気をだして買ってみた。皮を剥いて包丁を入れてみると、懐かしい香りが立ち上る。これは。まさしく日本の蕪ではないか。

これはいける、絶対いける、と確信してMayoのレシピを脇に措いて懐かしのレシピノートをひっぱりだして鶏ももと煮付けたら、白く美しい蕪の煮物ができた。しかも日本の蕪より固くしまって大きい(赤子の頭ほどもある)ので、煮くずれない。箸をいれて一口食べて感動した。うまい。味覚的ホームシックになることはないと思っていたのだが、turnip、いや蕪の煮付けを食べた瞬間、昔付き合っていた人のうちで彼がアルバイトから帰ってくるのを待ちながらうすら寒いアパートで料理をしていた神田川的思い出が奔流のように襲ってきた。なんというか、あの時はあの時でこの人と結婚するんだろうなとか考えていたのにもうあれから5年もたつのかと思うと、ただただしんみりと、人生ってわからないわね、と思うほかなく、しかしあまりのうまさに写真をとることなど思いもせずに完食した。また作ればいいやと思っていたら3月にして常に日中気温は30度近いBaton Rouge、煮物など食べる天気ではないので昨日はturnipを漬け物にしてみた。聖護院蕪に食感がそっくりなので、ほとんど千枚漬けだった。Baton Rougeで千枚漬けを食べることになるなんて。感動のあまり、以下レシピ。日本で興味を持たれた方は蕪で試してみてください。オリジナルレシピは蕪なので。

[とりと蕪の煮物]
☆かぶ/turnip 蕪なら一束、turnipなら1つ
☆鶏もも 一枚
☆酒 大1
☆片栗粉 大1/2
☆だし汁 250cc(わたしは茅野やだし、という顆粒だしを煮だしたものを使っていますが、水200ccに白だし50ccでも)
☆みりん 大2.5
☆しょうゆ 大1(あれば薄口)
☆塩 小さじ1/3
①かぶは茎を少し残して皮をむいて櫛切り(4等分)、面取り。Turnipの場合は皮をむいて半分に切ってから8等分くらいにする。
②とりももは一口大に切って、酒をふりかけ、手でよくもみ込む。片栗粉をふりかけ、さらにもみ込む。
③鍋にだし汁、みりん、醤油をいれ、煮立ったらとりを一つずついれる。くっつかないように箸でほぐす。
④鳥に火が入って色がかわったら蕪を加え、アルミホイルの落としぶた(中央を切る)、ふたをして中火で10分から15分。ゆず胡椒等を添えて召し上がれ。

[蕪/turnipの昆布茶漬け]
☆蕪 1ワ、turnipなら1つ
☆昆布茶 小さじ1
☆すし酢 30cc (なければ酢30cc、お砂糖大1/2、塩1/2に昆布の切れ端を入れて。)
☆七味 少々

①蕪、turnipは2mm程度のいちょう切りにする
②ビニール袋に蕪と昆布茶を入れてよく揉む。最初は蕪が壊れないようにやんわりと。少しすると水分がでて柔らかくなってくる。
③すし酢を加えてさらに揉み込み、1時間以上置く。仕上げに七味少々をふって。ちなみにこのお漬け物はけっこうどんな野菜でもできて、酢の物が欲しくなる春先にはとっても便利である。ズッキーニ(薄切り)、セロリ(皮を粗く剥いて斜めぎり)、レタス(適当にちぎる)はお気に入り。好みのドライハーブを入れても。

神田川生活が終わりを告げた時には芯まで冷えた洗い髪に凍えながら赤い手ぬぐいを食いしばったものだけれど、ほんとに人生ってわからないもので、今はやっぱり今が一番だと思えるのだ。だからいつか、もしもこの生活が終わっても、その時にはそれが一番だときっと思えると信じている。

だるまに目の入った日

昨日、論文を投稿していた雑誌からメールが来た。10月に"Revise and Resubmit"(Reader's noteの要請に答えられたら採用という旨の返事)をもらって以来、こんな無茶難題無理です直せませんと涙ぐみながら必死で書き直した論文で、1月の末に再投稿を終えてから約二ヶ月、毎朝メールを開くたびに期待と不安で胃がもげそうになった日々だった。今度のメールはCongratulations!で始まっていた。アメリカで初めての業績が出来た。今はただもう、感謝しかない。ちくしょう、涙で前が見えねぇよ。

おとうさんのラーメン

うかうかしているとまた半年たちそうなのでとりいそぎ小さなお話を。

以前にもすこし書いたけれどもこの冬は日本に帰らなかったかわりに、両親がこちらに来てくれた。さらりと両親が、などと書いてはみたが、なにしろうちの父と母は別居して20年近いので「両親」という主語を使って彼らの行動を描写するのはなんとも久しぶりでかつ不思議な気がする。しかもその久しぶりの二人行動に海外旅行を選ぶっていうのはあなたたちどれだけハードルあげれば気が済むの、とため息をつくばかりであったが、とにもかくにも三十路を目前にした娘であろうがなんだろうが子はかすがいということか、両親がルイジアナにやってきた。

彼らがやってきたその日、折悪しくNew OrleansはBCS National Championship Game という全米大学フットボールの頂上決戦で沸き返っていた。沸き返っていたというのは単なる修辞表現にとどまらず、French Quaterの狭い路地には人が溢れ、(いつものことだがいつにもまして)人々の熱気で蒸されたアルコールの匂いが立ちこめていた。それもそのはず今期LSUはランキングNo. 1、Championship Gameの相手は二位の宿敵Alabama(というのもLSUを二度優勝に導いた名将Nick Sabanが三年前Alabamaに移籍したのだ)なのである。日程的にどうしてもこの日にNew Orleansに滞在しなければならない両親はホテルをとるのにも一苦労、通常ふたりで130ドル程度の部屋が360ドルという有様だった。別居していた両親が初めて二人で海外旅行をする、娘の彼氏の顔を見に来る、わたしはいまだに車が運転できないので移動はPJに頼まなければ不可能(信じられないことにBaton Rouge-New Orleans間は車でたった一時間の距離だというのに公共交通機関がない。貨物列車しかない。)というそれだけで胃に穴が空くほどの条件が揃った中、さらに酔っぱらいでごった返した街で無事に両親を案内しなければならない。ハードルはすでに高飛びのバーほどに上がっている。ひと月前から緊張で吐くかと思うほどだった。

が、まぁ来てみれば両親は信じられないほど無邪気に初めてのアメリカを楽しんでくれた。とりわけ印象的だったのはいつもは感情をうまく出せない父親がわたしがどこかを案内したり料理を作ったりするたびに目尻をさげてうれしそうに笑うことだった。考えてみれば小さい頃父と旅行をすると、お父さんはいつもいつもわたしたち姉妹に出来る限りの経験をさせようと分単位で計画をたて、そのあまりの急がしさに母やわたしたちが愚痴を言うので、ゆっくりと自分が観光を楽しむことができなかったのだと思う。両親は英語を話せないので自然わたしが全てをやりくりすることになるのだけれど、わたしがお店の人と話をしたり道を尋ねたりするたびに、ありがとうありがとうと父は笑う。Preservation Hallに行ったら目をつぶって身体をゆらしながら、New Orleansでジャズを聞くのが夢だった、などというので、ずっとこんな風だったらきっと母と別れることもなかったろうなぁ、などと思っていたら、その夜ホテルのバーで、ずっと言えなかったけれど、お母さんとは離れて暮らさなければいけなくなったけれど、この人はわたしにとって誰よりもかけがえのない人なんだ、などと涙ぐみながら言うので、母と目を見合わせて笑うしかなかったのだけれど、もちろんいまこれを書きながらわたしは泣いている。

そんなわけでなんというか実りの多い四日間の弾丸滞在(母は税関で「日本から来てたった四日いるの!?日本人てほんとわけわかんない」と言われたらしい)だったのだけれど、わたしの手元には現在両親が移民のごとく大量に持ってきてくれた日本食が溢れている。ゆず胡椒だとか白だしだとかいろいろうれしいものはあったのだけれど、なんというかやっぱり涙のつぼは父のもってきた6袋のサッポロ一番である。母は、そんなもの思いもよらなかった、さすが男の一人暮らしね、などと冗談めかして言ってたし、わたしも普段はインスタントラーメンというのは食べないのだけれど、どうもこの袋をみていると、小さい時に父が作ってくれたラーメンを思い出してしまう。我が家は母の方針でめったにラーメンなどのいわゆるジャンクフードを食べなかったのだけれど、日曜の昼だけは別で、父はインスタントラーメンの上にたくさんのレンジでチンした野菜を乗っけてわたしと姉に食べさせてくれた。甘くなった玉ねぎやにんじんがどうにも好きにはなれなくてわたしはよく残してしまったのだけれど、不思議なものでいまでもあの日曜日のインスタントラーメンというのは今でもはっきりと味を思い出せる、わたしにとってのプルーストのマドレーヌなのである。

しかしなんというかやっぱりそのままラーメンとして食べることにするとなかなか機会がなさそうだなぁ、と思っていたら、在Baton Rouge日本人の奥さんがある日、こないだアメリカ人のPotluckにいったらAsian Slawなるものがだされていて、なになにAsian?と思って食べてみたらこれがびっくり、ラーメンを砕いたものをサラダに混ぜたものでおよそアジア人には思いつかないものだったんだけど、正直いってけっこうイけたのよね、うちでも何度か作っちゃった、と言っていたのでさっそくレシピを聞いて作ってみた。懐かしのミスター味っ子を彷彿とさせるゲテモノ感満載の料理ですが、なんというかあまりの簡単さとジャンクフード味がつぼにはまってわたしもかれこれ三度ほど作ってしまった。以下、レシピ。

[Asian Slawのレシピ]
☆インスタントラーメン 1袋
☆インスタントラーメン付属のスープ  1袋
☆キャベツ、レタス、人参などのシュレッド ボウルに山盛り(ロメインレタスなら2玉、キャベツならものによるけれど小さいものを1玉、これにコーンなどをプラスしてもよいし、アメリカならBroccoli Slaw Mixというブロッコリの茎を千切りにしたものが売っていて、これはけっこうよくあった)
☆すし酢 75cc (すし酢がなければお酢70ccにお砂糖大さじ1.5と塩小さじ1、あれば顆粒だし少々を加えて煮きるかあるいはレンジにかける)
☆胡麻油 大さじ1
☆五香粉 小さじ1弱(これは好みで)

①すし酢にスープのもと(と五香粉)をいれてかき混ぜ、溶かす
②①に胡麻油を加え、さらに混ぜる
③千切り野菜に②をかけ、よくトスしてまぜあわせる
④作り立てはラーメンがポリポリしていてクルトン的。一日置くとパスタサラダ的になる。

人生というのはよくわからないもので、これから自分がどこに住むことになるのかいまだにわからずに時に夜中に目が覚めてため息をつくこともある。が、お母さんのことは心配しなくていいから、自分の信じるとおりに生きなさい、お父さんは応援しているから、とぽつりと言ってくれた父の言葉を胸に、今日も曲がり道くねり道をゆっくりと踏みしめる。