お金貯めて三日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば数珠繋ぎ
冷めたスープ放り投げるように飲まされて
二段ベッドでもあたいの夏休み
Summer Vacation  あたいのために
Summer Vacation  夏 翻れ

—中島みゆき「あたいの夏休み」

2012年2月22日水曜日

Rochester, Minnesota (2)

さて話がRochester自体からはやや逸れたが、PJの両親がすむこの街は、Minneapolisから車で1時間半ほどのところにある。小さな街だからそんなに観光するところはないんだよ、とPJは言っていたが、やはり行ってみるとわたしにとっては興味深いことが山ほどある。なにしろ考えてみれば北部はNew Yorkにしか行ったことがなかったし、New Yorkはアメリカ北部の街というよりはコスモポリタンな都市なので、どちらかといえば北部の他の都市よりも東京とのほうが共通点が多かったりするわけで、RochesterはNew Yorkではおよそ見られない北部の(というか中西部の)典型的な郊外の街並を味わうことができた。

Rochesterという街はMayo Clinicという名の病院とそれを中心とした医療産業で成っている。Mayo Clinicは入院、手術というよりは主に先端治療法の開発及び各患者に対する新たな治療法の提案を行う全米屈指のNPO医療団体なのだが、もともとは南北戦争後の1863年にWilliam Worral Mayoという医師がその二人の息子とともに起こした小さな病院だったそうだ。年を経るにつれその先進的な医療技術に注目が集まり、1928年には左の写真(Plumber Buildingというのだが)のような大きな建物で治療が行われるようになった。この建物は現在でもMayo関係の医療カンファレンスや研究が行われているのだが、その内部の美しさは病院とは思えないほどである。現在ではPlumber Buildingのすぐ横により現代的なビル(前の投稿の一番最初の写真は二つの建物が両方写っている)が建てられていて、そこにはアメリカ全土および世界各国から治療困難な難病指定を受けた患者達が新たな治療法を求めてやってくる。

Mayo Clinicの街の中心たる所以は、それが地域のコミュニティを形成しているところにある。Mayoは地域住民からボランティアを募り、患者と病院のコミュニケーションの潤滑化を図っているようで、PJのお母さんも週日はボランティアとしてMayoにいる。Mayoは医療私設の人間化とでもいうのか、医療を日常から乖離したプロフェッショナルで怜悧な空間にしないことを旨としているようで、一見ホテルのような建物内(聖路加とかそういう病院にも通じるものがあるのだけど)には無数の美術品が(ほとんど無造作に)置かれている。元美術教師だったお母さんの仕事はこの作品達を説明するツアーをすることなのだが、おもしろいことに多くの作品はMayoで治療を受けた患者の家族ないし知人からの贈呈品なのだった。左のシャンデリアはホールに飾られたDale Chihulyというアーティストの作品なのだが、ひとつひとつ自らの息で膨らませたというガラスの集積は館内の光を集めて温かく輝いていた。他にも小児科には元科学の先生のおじいちゃんがいて、子供達に本を読み聞かせたり科学の実験をやってみせたりしていてこれもまた見ていて和んだ。加えてMayoを中心とするRochesterの街は実は2km四方くらいに渡って建物同士がSkywayとよばれる空中回廊と地下通路によって結ばれているので、地方から来た患者はホテルから冬の外気に触れることなく病院まで行くことができる。小さな街だからこそ実現できることなのかもしれないが、妙にしみじみと感じいって、近くのBarns and Noblesで医食同源を唱導するMayoの料理本まで買ってしまった。

たった三日の滞在ではあったが、PJの両親はなにからなにまで気を使ってくれて、クリスマスツリーの下にはAvedaのヘアケアセットをわたしのプレゼントとして用意してくれていたり、お手製のフルコース料理をふるまってくれたり、MinneapolisのMinneapolis Institute of ArtでEdo Popと題された浮世絵の展覧会に連れて行ってくれたり、北部にありながらほんとうにほっこりとした旅だった。正直に言うと、南部の人々の開けっぴろげな愛情表現(とりあえず常に両手でハグ、とりあえず常に笑顔、とりあえず常に大声)に慣れていたわたしは、最初は北部の人たちの穏やかさや落ち着きに少し戸惑いはしたのだけれど、別れ際、いつも川を見るたびにあなたのことを思い出すよ、Missisippi Riverの上流と下流でいつも繋がっているんだよ、と言ってくれたふたりの優しさは忘れ難い。先日PJのお母さんからおいしいクッキーのレシピが届いたので近々試してみるつもり。

Rochester, Minnesota (1)

話は前後するが、12月の末にPJの両親の住むMinnesotaのRochesterという街を訪れた。

"Meet the parents"というイベントがなにやらいわくいいがたいのは万国共通のようで、いかに普段はカジュアルなアメリカ人たちもこんなサイトがあるくらいにはそれなりに恋人の両親に会うのは気を使うらしい。なんだかんだこれまで付き合った人々のご家族(と書いていま気づいたのだが「ご両親」がいるボーイフレンドというのは初めてなんだな)とは割に密なお付き合いをさせてもらってきたのでこういうシチュエーションには比較的慣れているとはいえ、しかし相手が外国人となるといまひとつ距離の取り方がわからないのでなんだかふわふわと落ち着かないまま、とりあえず茶菓子を焼いて詰めた小箱を片手にMinnesotaに飛んだ。

なにしろ寒いのが嫌いで南の大学ばかりアプライしたわたしが冬にド北部に行くことになるというのはなんとも皮肉で、旅の前は連日Minnesotaの天気をチェックしては、おいおいこんな寒いとこ行くのかよ、と12月に入ってなお半袖の南部で肝を冷やしていた。なにしろMinneapolisでは昨年、フットボールスタジアムの屋根(東京ドームみたいな形の)が雪の重みで落ちたという。1月には零下20℃にもなるというその寒さは東京人の想像の及ぶところではない。ありったけの冬物下着をスーツケースに詰め込み、降り立ったMinneapolisの空港はしかし、そこまでの寒さではなかった。もちろん零下は零下なのだが、零度を下回ると大気中の水分が凍って身体に沁みなくなるので湿気のある4℃の空気よりもよほど温かく感じる、というPJの再三の説明のとおり、寒風吹きつさぶ南北線東大前駅の死にたくなるような寒さに比べればよほどに過ごしよい。拍子抜けしていると迎えにきてくれた満面の笑顔のPJの両親が、ほんとに最近はあったかくてルイジアナから来たふたりを迎えるのにはちょうどよかった、まったくスプリングブレイクみたいな天気だ、と言う。いやもしもし、滝、凍ってますけど、という喉まで出かけた言葉は無事飲み込んだ。

アメリカを旅行するたびにおもしろいなぁと思うもののひとつは人口分布だ。例えば再三繰り返しているが南部は白人と黒人がだいたい半々でその他の人種(アジア、アラブ、ユダヤ、ラテン系など)が極端に少ない。ルイジアナはフランス・スペイン系移民の影響が大きいため南部の中ではわりに特殊な多民族文化を形成しているのだが、南部の多くの州はわりにいわゆるWASP的な白人文化がやはり際立って優勢で、例えば女の子はBritney SpearsとかJessica Simpson(ブリはミシシッピ、ジェシカはテキサス出身とふたりとも南部娘なんですね)みたいな、え、それほんとにブロンド?染めてるの?というような黄味がかって根元が黒いブロンドに、なんかこう「くわっ」とした見るものを取って食うかのような顔(いやもちろんかわいいんですけど、お化粧のせいなのかなぁ、なんかむやみに激しいんだよなぁ)を理想とするようなタイプが多い。New YorkやLos Angelesにいくとこういうメディア的にクラッシックなアメリカ娘というのは実は少なくて、意外にブルネット率が高いし、もちろんいわゆる「その他」の人種との混交が如実に見られる。さてそれではMinnesotaはどうでしょう、というとこれもまたとってもブロンド率が高いのだが、この土地の場合南部のようないわゆるアメリカ的「白さ」ではなくいわゆるプラチナブロンドに近い白さなのである。同じ白人でもやっぱり違うもんだがなんでなんだろう、と思ったら、Minnesotaは昔から北欧からの移民が多いから、とのこと。どうりで街にはMarimekkoとかAlessiとかNordic Wareとか(すいません料理系のブランドくらいしかわからなくて)南部ではおよそ目にしない北欧系のメーカーが軒を連ねている。

アメリカ文学では90年代くらいからWhiteness Studyというのが(それなりにではあるが)起こっていて、白人というカテゴリーを人種のマーカーのないブランクカテゴリーとしてではなくWhitenessによってマークされた人種として研究しようというような試みがあるのだけど、十把一絡げに白人といってもいろいろあるんだなぁといまさらながら実感するのはこういう時である。PJのお母さんの家族はやはりデンマーク系移民で、古くからMinnesotaに住んでいるため、PJのお父さんとお母さんはドイツでの仕事を終えてからはふたりでここに住んでいる。PJなんてわたしから見たらメジャーリーグ見ながらビールの大ジョッキを抱えていそうなくらい(実は本人はそんなに野球に興味ないんですが)アメリカ白人そのものに見えるのだが、実際は自分のことを「白人」とカテゴライズするのに抵抗があるようである。というのも、デンマーク系で4世代に渡ってアメリカに住んでいるお母さんに対し、PJのお父さんは第2世代ギリシャ系移民で、そのお父さんは英語を話すことがなかったというのだが、ギリシャ系というのはイタリア系同様、20世紀初頭まで「白人」とは見なされていなかったため、お父さんとお母さんの1950年代の結婚とPJの誕生はお母さん方の親戚にそれなりの波紋を呼んだらしい。なるほど親戚の集まりにいってみると、皆が皆いわゆる「透けるように白い」肌にほとんど白髪のようなブロンドである。その中でPJは自分とお父さんだけは「オリーブ色だ」と言う(…が、繰り返すようだがやはり人種的圧倒的他者のわたしからみると、いやいやあんたたち白いよ、という感じなのだが、こういうグループ内の差異というのはやはり部外者にはわかりにくいものなのだ)。

2012年2月21日火曜日

Mardi Gras

なにがどうなってこうなったのだか我ながらため息とともに呆れるほかないのだが前のエントリーから半年以上が過ぎていた。

ロスから日本に帰って三週間の滞在の後にはBaton Rouge、また一週間後にPJのいるNew MexicoのAlbuquerqueとSanta Fe (そうです宮沢りえのです)に二週間ほど行き、Baton Rougeに戻ったころにはわたしの夏休みは怒濤のようにすぎていて、気づけば始まっていた秋学期は初めてのティーチングやらHoustonでの学会発表やらに戸惑いながらもなんとか無事に終わり、ようやく迎えた冬休みにはPJの家族に会いにMinnesotaに行き、そしてその一週間後には両親がBCS Championship game当日の狂乱のNew Orleansにやってきて、息つく間もなくまた春学期が始まり、なんだかんだでかれこれ一ヶ月がたつ。どこかへ行けばああこれはほんとうにおもしろいから記録しておきたいと思いつつ元来の筆無精をのさばらせた半年間だったわけだが、しかしついにそれを打ち破る破壊力を持っていたのがMardi Grasである。

プロテスタントの多い南部(通称バイブルベルト)にあって、スペインとフランス統治の長かったLouisianaはほぼ唯一カソリック文化がいまだに根強い州であるわけだが、Mardi Gras はフランス系移民のカソリック達が大陸からもちこんだカーニバルである。罪深い日々を清めるためのLent (四旬節)が始まるAsh Wednesdayと呼ばれる水曜日の直前の火曜日をMardi Gras (肥沃な火曜日、Fat Tuesday)と呼び、翌日から始まる節制の日々を目の前に飲めや歌えやの大騒ぎをしようというのがコンセプトのこの日は、New OrleansはもちろんLouisiana中が祝日となる(もちろん学校もお休みである)。しかしそもそも、明日から悔い改めの日々がはじまるからどんちゃんしちゃおうぜ、というのはとてもある種カソリック的(正統カソリックではないにしろ)で、ルイジアナ出身の友人によればNew Orleansという街の南部の中では例外的に享楽的な性格というのはカソリックの告解の慣習—ひらたくいえば「懺悔すれば許される」という信念—によって説明される、ということなのだが、いやはやほんとにNew OrleansのMardi Grasというのはありとある俗世の穢れをとりあえず具身化したようなカーニバルなのだ。

マルディグラの中心はKreweとよばれるグループが行うパレードである。上の写真のようなfloatと呼ばれる山車に乗った人々が節分の豆のごとく左の"beads"と呼ばれるネックレスを通りの人々に向かって投げる、と言ってしまえばそれまでなのだが、このbeadsを獲得するために人々は荒れ狂う。山車に乗った人々から目につきやすいように思い思いのペインティングを顔にほどこし、マルディグラカラーである紫、金、緑の衣装を身にまとい、仮面をつけ、叫び、手を振り、踊り、果ては乳を出す (マルディグラ女子に興味を持たれた方はこちらこちらの写真をどうぞ)。各パレードはだいたい1時間半くらいなのだが、マルディグラのすごいところはFat Tuesdayその日だけでなく、やくひと月前から毎週末にこの手のパレードが行われ、いよいよその日が近づくと日に5回ほど異なるKreweによるパレードが行われるので、狂乱は丸一日続く。もちろんNew Orleansは全米でも数少ない路上飲酒が許される街なのでとりあえず人々は酒の瓶を小脇に抱え、これでもかとディープフライされたチキンやらPo' Boyやらを齧り時には木陰で嘔吐しながらそれでもまだbeadsを乞う。

正直、実際にMardi Grasに行くまではおいおいたかがプラスチックだろうよ、くらいに思っていたわけだが、カーニバルの空気というのは想像を絶して個人の意識の奥底をかき回すわけで、当然のごとくわたしも一日中beadsを乞うた。理由も糞もなく実際には欲しくもないなにかを心から求めて声を上げるというのは本当に不思議なものだ。なんというか心理的に興味深いのは、自分に向かってbeadsを投げてくれ、と涙ながらに乞いに乞うその行為自体が、その馬鹿馬鹿しさもあって妙に人を開放的にするというか、まったく役にもたたないただのbeadsを心から欲望して声をあげる、その欲望の純度の高さは日常ではおよそ経験されえないがゆえに非常に貴重である。自分のためにBeadsを投げてくれたKreweのメンバーには必ずお礼のジェスチャーをするというのがルールらしいのだが、繰り返すようだがなんの役にも立たないビーズをもらってそれを後生大事に胸にかき抱き、殿上人のように高みから群衆を見下ろす存在にありがとうと訴えるという行為のabsurdさというのは物凄い。

しかし同時にパレードを見ていてわたしのなかのPolitically Correctnessが抑えきれない野暮な瞬間というのはどうしてもあった。パレードのなか、各フロートを先導するマーチングバンドとダンサー達の90%以上は黒人、フロートに乗ってビーズを投げる人々の90%以上は白人なのを目にすると、カーニバルとは日常のオーダーの転覆である、などとは言うが当たり前にこの果てしない蕩尽のために必要な金を持つものと持たざるものの境界は覆りはしないわけで、こうやってカーニバルによる擬制的ガス抜きによってやはりシステムっていうのは保持されるわけですかね、などと思いもしなくはなかった。Kreweのメンバーになるためには(Kreweの規模や性質にもよるが)通常最低でも$4,000くらいの年会費が必要だったりするそうで(ちなみに各KreweはBallというダンスパーティのようなものをパレードの前に行う。これは盛装が基本で、Tableau vivantなんかもあるほんとに19世紀的な会なのである)、人種差別というものがこれだけ公にはNGになり、加えてNew Orleansのように歴史的に黒人文化がかくもあでやかに華開いている街でも、人種の壁が経済的な壁に置き換わってはっきりとした線引きが目に見えるというのには妙にしんみりした。

というわけで半年ぶりのあたいの夏休みだったわけだが、やはり訪れるたび思うのは、New Orleansというのはけして期待を裏切らない街だということである。ただしMardi Grasの時にこの街に来るのはもちろん素晴らしいだろうが、Fat Tuesdayその日周辺にはホテルが一泊300ドル近くにもなるのでお勧めはできない(あるいは8月くらいから予定をたてればなんとかなるかもしれない)。一週間前、または二週間前の週末であれば落ち着いてパレードを見ることができるだろうし、ホテルも(それなりに)値ごろなはずなのでそのほうが安全かもしれない。そんなこんなでまた近いうちにここに—New Oelreansに、このブログに—戻ってくることを総計5kgに及ぶビーズに誓いながら、さて今日もお勉強。

2011年7月25日月曜日

Los Angeles, CA (4)

Los Angelesについてはまだまだいろいろ書くことがあって、撮り貯めた200枚超の写真を見ながらあの一週間を回想するとそれだけで幸せな気分になる(ふたりの顔の写っていない写真が驚くほど少ないのでこちらにアップできないのは残念だけど、ひとりでほくほくさせてもらっている)。たった一年ですっかり田舎生活に馴染んだ身としては都会の空気が少しだけ厳しく、外出から戻ったら手洗いうがいをする、というような都会生活のいろはをすっかり忘れて喉を痛めたりもして、人間は生まれ育ちの如何に関わらず生活の向き不向きというものがあるんだな、などと思いもしなくはなかったけれど、それでも字義通りにも比喩的にも万年晴れのLos Angelesは旅行者にとってはこの上なく楽しい場所なのである。

10年来の友人を口説き落としてついに脱がせ、初めて一緒に水着になったMalibu Beach(これまた億万長者の家々の壮観だったこと。ちなみに前述のGetty Museumの別館で、Gettyの私邸だったというGetty VillaもMalibuにあるのだけれど入るには予約が必要とのことで残念ながら行かれなかった。次回は是非行きたい)、万年晴れのLAの裏の顔ともいえる街唯一のWalmartがある裏さびれたエリア、それになんといってもいとしののdrag queen、Ravenを一目見たいというわたしの涙目の思いに答えて夜中に車を1時間以上飛ばして友人が連れて行ってくれたRiversideのThe Menagerieというゲイバー(なんとRavenそのひとは翌週West HollywoodにあるMicky'sでショウをするために不在だった…しかし初めてのドラッグショウ、ほんとにほんとにほんとに楽しくて、クイーン達におひねりをあげまくった。その度にじっと目を見てくれたり手を握ってくれたりするので失禁するほどうれしかった。自分がなにをしたいのかどこへむかっているのか最近よくわかりません) 、どれをとっても最高の出来事だった。

もちろん食いしん坊としては食べ物のことも書いておかねばならない。多くの都市同様、LAはレストランも充実しているのだけれど、なんといっても特筆すべきはアジア系の食べ物の強さである。写真左はコリアンタウンで彼女のお勧めの…これはなんという料理だったっけ、すっかり名前を忘れてしまったけれど(サムギョプサル?)、ごらんの通り豚バラ肉をじょきじょきとはさみで切って焼き鍋にのせ、周りのキムチスープと一緒に食べるもの。最後はここにごはんを入れておじやにして食べる。

アメリカ南部というのはアジアから遠く離れているためか、ほんとうにアジア人人口が少なくて、アメリカ中どこにでもあるという韓国料理店が驚くことに一店もない。アメリカ人の経営する中華料理店や寿司屋はあるのだが、それも正直言って、時に訪れるアジア料理に対する渇きを癒してくれる味とは言い難い。ただ、和食であればある程度は自分で作れるし、中華料理も工夫をすればそれなりにおいしいものが作れるのでよいのだが、こういう韓国料理だけは日本で作ったこともないのでどう逆立ちしてもできっこなく、時に、あー焼き肉食べたい!というような妙なホームシックに駆られるのだけど、ここLAに住む彼女はそんな望郷の想いとは無縁だろう。ダウンタウンにほど近いチャイナタウンでは写真のような飲茶もお腹いっぱい食べたし(おばちゃんたちがカートでいろんな飲茶を届けてくれる、あの本場式の飲茶である)、アメリカ印のハンバーガーでさえその名もUmami Burgerという、日本万歳なうまみたっぷりのバーガー屋さんがあり、これはわたしがいままでの人生で食べたバーガーの中で間違いなく一番おいしかったので、Los Angelesに行くことがあったらとりあえずだまされたと思って絶対行ってほしいところ。

しかし結局のところなによりもうれしかったのは忘れもしない去年のいまごろ、不安で泣きそうになりながらアメリカ入りしたわたしのBaton Rougeでの生活のセットアップを、はるばるLAから来てすべて(文字通り す べ て)手伝ってくれた友人と一年ぶりに再会して一週間過ごせたことで、二年連続でわたしのために夏休みを全部使わせた上、一週間で彼女の三ヶ月分くらいのマイレージを消費したのではないかというくらいさんざんいろんなところに車で連れて行ってもらって、すこし申し訳ない思いもやはり否定はできないのだけれど、毎週電話でさんざくさ話しているとはいえ実際に顔を見ればやっぱりこんなに安心できる相手がいるというのは奇跡的とでもいうほかなく、彼女の家でほんとうに満ち足りた時間を過ごさせてもらったのはほんとうに最高だった。

***

そんなわけで、わたしの苦学生なお財布ではなんのお礼もできないくらいの恩を受けたのだが、なにか出来ることはないかなぁと思っていた矢先、彼女が「ポットラックに持って行けるお料理はないかな?」と言ってくれたので、渡りに船とばかり一夜限りのお料理教室をさせてもらった。いろいろメニューは考えたのだけれど、アメリカだけではなく日本でもパーティに持って行って間違いなく喜んでもらえて、かつ外では(少なくともアメリカでは)なかなかおいしいものに出会えなくて、さらにはちょっとおしゃれな若い娘っぽい料理であるキッシュを一緒に作ることにした。ちょっと面倒くさいように思えるかもしれないけれど(そして実際自分のためだけになら絶対作らないくらい時間もかかるしカロリーも高いのだけれど)、生地から手作りしたキッシュの焼ける匂いというのは何にも代え難い幸せを(そうだな、たとえば一年ぶりの親友同士の再会くらいの幸せを)運んでくれるので、大切なひとになにか作ってあげたいときにはぜひ試してみてください。

[Roasted Onion Quicheのレシピ]

生地 (20cmのタルト型2台分なので半量で作っても)
 薄力粉 240g
バター 140g
卵 1
砂糖 大1
塩 小1/2
冷水 30ml

アパレイユ(卵液を気取ってこう呼びます)
卵 1
牛乳または生クリーム(またはhalf and halfのもの) 80ml
塩 少々
ナツメグ 少々
グレーテッド・パルメザン 大2から3

フィリング
たまねぎ 大2
マッシュルーム 1/2パック

まずは生地から。バターを1cmに切って冷凍庫に入れておく。薄力粉も冷蔵庫で冷やす。卵、砂糖、塩、冷水を溶きあわせてやはり冷やしておく。
バターと薄力粉をフードプロセッサーで撹拌する。バターが米粒大になるまで。(FPがない場合はカードかフォークで切り混ぜる。けしてバターが溶けないように注意)
②をボウルに移し、①の卵液を加え、混ぜる。あまり練らないように。水分が少し少ないように感じられてもそのうち馴染むので焦らなくてよい。とにかく練ってバターの塊がとけてしまったらさくさくにならないので要注意。
二つにわけてそれぞれラップでくるみ、冷蔵庫で最低半日、できれば一晩寝かせる(なお、この状態で冷凍もできる。)。これをしっかりしないと焼き縮む。
型にバターを塗り、小麦粉をはたく。
④の生地をオーブンシートで挟んで打ち粉を少々し、めん棒で均一に。型より3cmくらい大きくなるようにのばす。上のオーブンシートを外し、下のオーブンシートの下に手を滑らせ、裏返して型にあわせていく。底面から空気がはいらないようにくっつけてシートをはずし、その後で側面。焼き縮むので少し型より上にでるように指で押す。
フォークで軽く全体にピケ。そのまま1時間以上寝かせる(これも焼き縮みを防ぐため)
⑦の上にアルミフォイル、パイストーンを敷いて350°Fのオーブンで15分。アルミフォイルごとパイストーンを外したらさらに15分。これを空焼きという。
次はフィリング。玉ねぎは薄くスライス。マッシュルームもスライス。
フライパンにオイル(大1くらいかな)を熱して玉ねぎを炒める。あまり触らないでほっておく。玉ねぎがしんなりして水分が出たらバターを少し加え、塩こしょうで調味する。とにかく時間をかけて飴色になるまで。30分はかかるので覚悟しよう。
玉ねぎを一旦器にあけて、同じフライパンにオイルを少々足してマッシュルームを炒める。軽く塩こしょう。
アパレイユの材料を混ぜる。卵を泡立てるとオムレツのようになりがちなので優しく切るように。
空焼きしたタルトの上に玉ねぎ、マッシュルームを均一に乗せたらアパレイユを静かに注ぐ。350°Fのオーブンで40分焼いたら出来上がり。おつかれさま!あら熱をとって中身が落ち着いたら食べられます。


優しい友人のこと、わたしが帰った数日後には他にもいくつかあったサイドディッシュやスープなど、ぜんぶのレシピを試して、お気に入りのiPhoneで写真をとって送ってくれました。次に会うまでにまたわたしもたくさん新しいレシピを用意しておくので、どうかまたわたしの夏休みにはあなたの笑顔をいつも見せてくださいね。ほんとうに、ほんとうにありがとう。一年後に会う時には、もっと強くたくましく(それからあなたのかわりに運転もできるように)なっていますように!

Los Angeles, CA (3)

消費の話に傾いたが、さてしかしLAを発ってひと月が過ぎようとする今日この頃、なつかしくあの一週間を振り返ってひとことであの街を形容するならなんなのか、と思えばそれはやはり、因果なまでに果てしない欲望なのである。都市というものが欲望によって駆動している、というのは自明も自明なのだが、世界屈指の消費都市に生まれ育ち、若さにまかせてそれなりには都会的欲望というものに触れてもみてきたというにも関わらず、LAという街の欲望のエネルギーにはどうにも驚かされて仕方がなかった。

ひとつにはそれは、この街の主要産業がエンターテイメントだということがあるのだと思う。東京もニューヨークも、もちろん都市は都市でそれなりに欲望が渦巻く様子は容易に観察され得るのだけれど、蕩尽的欲望のみならず、それを生み出し支えコントロールする日常の冷静ですこし気怠い存在感というのが常にどこかには感じられるわけなのだが、LAという街はなんというか、ハレとケでいうところのハレが万年続いていてケが存在しないように見えるのである。もちろんそれはわたしが旅行者で、ハレの場にばかり足を運んでいた、というのも理由としては大きいのだろうけれど、しかしそれにしても、たとえば同じ観光で行ったNew Yorkでは観光の途中、道行く人にある種の生活感を感じることは多々あったのだけれど、LAというのはレストランのウェイトレスやスーパーのレジ打ちのおにいちゃんでさえ俳優志望、モデルの卵だったりするわけで、なんというか人々が皆、LAという書き割りの舞台の上で常に誰かに見られていることを意識しているようなそんな感じがある。考えてみればそれも当たり前といえば当たり前で、街のなかにかの有名なHollywoodやBeverly Hillsがあって、映画スターが普通に暮らしているわけだから、日常とスペクタクルのボーダーが限りなく曖昧な街だということなのかもしれない…などとハリウッド・ビバリーヒルズのバスツアー(オープンエアで気持ちがいいことこの上なく、2時間ほどかけて街をじっくり回りながらいろいろ説明してくれるので楽しい。バスはチャイニーズシアターの前から出ている。ひとり$35くらいだったと思うが、まちがいなくお値打ち。ただし日差しが半端ないので帽子が必須)でセレブの家々などを眺めがなら思った。ちなみに写真は故マイケル邸。

しかしそんなふうに欲望が渦巻くどころか逆巻いて天を目指す天使達の街Los Angelesが、その欲望の濃度と強度にもかかわらず信じられないほど居心地がいいのは、実は地形的な要因が大きい気がする。山と海に挟まれた細長いこの街は(日本で言うと神戸を思い描くとよいと思うのだが)都市にありがちな閉塞感というものが皆無である。まずビルがない。いやもちろんないわけではなくてよくドラマなどで見るビル群というのは間違いなくダウンタウンに存在はしているのだけれど、それ以外の場所にはいわゆるスカイスクレイパー的な高層ビルがなく、高いビルでも10階立て程度、しかもビルとビルの間にそれなりに距離があるので、上を見上げるまでもなく大きな空にカリフォルニアの太陽が燦々とさしているのが常に感じられるし、フリーウェイからはほぼ常に山が見える。

上の写真のGetty Museumはその意味でLAの象徴的存在のようで、小高い丘(というか山)の上にそびえ、Los Angelesの街と太平洋を見下ろす私設美術館である。この美術館はJ Paul Getty という、ひとときはギネスブックにも載ったほどの大金持ちの美術コレクターの死後、10億ドルをかけて立てられたというものなのだが、コレクション自体よりもなによりも、個人の資産でこれだけのことが可能なのだということを誇示するようにどこまでも続く白い石造りの建築が有名で、なにしろ入場が無料(パーキング代が入場料になっているとのこと)ということもあり、ピクニックにはもってこいの場所である。ちょうど A Revolutionary Project: Cuba from Walker Evans from Nowという展示がやっていて、Cuba人写真家たちの「nationalisticな」とされる写真と、「Cubaの現状をえぐる」とされるアメリカ人写真家たちの写真のコントラストが強調されていて、いやいや資本主義の髄を集めたようなこの美術館でこの展示かぁ、と若干苦笑いをしなくもなかったが、でも公平にみてなかなか面白い展示だった。Evansというのは恐慌期のアメリカ農村部(特に南部)を記録的に描写した写真(Straight photographyと呼ばれるものだが)で有名で、その写真がFSA ProjectというNew Dealの一貫である農家救済政策に資したことからその政治性を話題にされることもあるのだが、実際の彼の写真はどちらかといえば人間の身体を含めすべての対象を抽象的なフォームに還元して捉えるある種のaesthesicism のほうが際立っている。妙なsentimentalismに淫することなくかといってただ冷徹に対象を記録するだけでもなく、対象の線的な美しさにEvansが芯から魅せられているのがわかるようで、やっぱりいいなぁと思った。考えてみれば美術館に行ったのは実に久しぶりで、というのもBaton Rougeには美術館とか画廊とかそういういわゆる文化的なものが全然存在しないからなのだった。自分はそういったものには別に未練はないと思って無頼を気取ってきたけれど、いざ久しぶりに絵とか写真とかそういったものに触れると、ああやっぱりたまにはこういう活動が恋しいものなんだな、と思う。MOCA (The Museum of Contemporary Art) では実にLAらしくstreet art展が催されていたようで、最近BanksyExit Through the Gift Shopというドキュメンタリーがけっこうおもしろかったので行ってみたかったのだけれどこれは時間がなくて行けなかった。LAではコンテンポラリーが主流で、いわゆる古典絵画の展示が少ないのが弱みだと友人は言い、わたしもあまりこてこてのコンテンポラリーとかコンセプチュアルアートは苦手なのだが、いやはややっぱりLAに来ると、そういうのも見ておきたいものだと思うのだ。次回は是非行こう。

2011年7月21日木曜日

Los Angeles, CA (2)

Baton Rougeにいる間もそれなりに消費欲の炎は絶やすことがなかったのだけれど、結局のところ何を着てみたところで、PJが覚えた数少ない日本語である必殺の「ビジンダネー」でわたしを甘やかしてくれる上、「おっ、ちょっと違うね」という微妙なニュアンスの通じない土地柄(とりあえず脚と胸をだしていたら、オー、すごいホットね!みたいな記号的な世界なのだ)なのでいくらこじゃれたところで虚しいだけ、東京にいた時のように最新のトレンドを追うように毎シーズン服を買う、などということは全くしていなかったのだが、さすがLAである、みごとにわたしの消費欲望にガンガンと油を注いでくれるではないか。

友人の住むSanta MonicaというのはLAのダウンタウンから車で20分くらいのところ(LAというのは不思議な街で、どこでもだいたいお互いから車で20分)なのだけれど、おしゃれデパートBloomingdalesを擁するこの街はビーチだけでなくお買い物にも最適な場所である。Third Street Promnadeという通りには日本の女の子も大好きなkidsonをはじめ、100近いお店が軒を連ねていて、かわいらしいカフェやレストラン、それにご覧のようなストリートパフォーマー達が鎬を削るのを横目に、カリフォルニアの太陽とヤシの木の木陰のもと、お散歩気分で好きなだけ消費欲望を満足させられる。

しかもカリフォルニアというのはおしゃれキッズたちにとっては奇跡の気候なのだ。日本にいる時に雑誌でみて、いったいいつこんなカッコすんだよ、とつっこみを入れていた、「短パンにuggのブーツ」「Tシャツにレザージャケット」「ノースリーブにブーツイン」みたいな組み合わせを容易に可能にするのが、日差しは強いのだが湿気はなく、木陰は肌寒いという天気で、万年湿度90%気温35℃により短パンとTシャツ以外不可のルイジアナとは天と地の差である(いや、ルイジアナの天気は大好きなのだが)。友人のお勧めショップVINCEで白いドルマンスリーブのTシャツを買って(驚くべきことに$100近いトップスを買ったのはアメリカに来て初めてだった)、よし、これで店員になめられないぞ、と意気込んで翌日向かったのはLAから車で1時間半、Palm SpringsにあるDesert Hills Premium Outletsである。

Desert Hillsとはよくいったもので、このアウトレットはまさに砂漠の丘の上にある。実は意外なことにアウトレットには国内外を問わずそれまで行ったことがなく、アメリカに来てからは特にブランド品に対する興味が皆目なくなってしまったので(大学ではブランドバックを持っている女子はひとりも見たことがない。服もある意味制服のように多くのソロリティ女子は短パンTシャツなのだが、その分車やサングラスなどで差別化をはかっているようだ)、アウトレットに行くといっても、家族へのお土産(そうなのだ、わたしには好みのうるさい女家族が三人もいるのだ)を買おうかな、というくらいの気持ちだったのだが、このアウトレットはほんとにすごかった。母君の大好きなmarniに始まり、PradaやGucci、FurlaやBarney's New York、それにアメリカのアウトレット中どこに入っているといっても過言ではないCoachなど、上から下までなんだこりゃという品揃えである(もちろんどの店舗も広い)。しかもアウトレットの気安さ、店員さんもどこの店でも、あらーこれなんかいいんじゃない、というテンションで、通常店でならいちいち頼まないと触らせてももらえない品々をドンキホーテなみの気軽さで出してくるので試着もしほうだいである。中でもCoachとBCBGの投げ売り加減はこちらが食傷するほどで、正直ブランドものの不法投棄所にやってきたような気分になり、ああ人間よ、人間よ、と思わなくもなかったが、とりあえずBCBGではジャケットを買い、レジに行ったら値引きされた値段からさらに値引きされて$50もしなかった。友人によればDesert Hillsは比較的新しいアウトレットで、同じくLA近郊のCamarilloというところのアウトレットより狙い目とのこと。LAにお越しの際、女子の皆さんは万障お繰り合わせの上おでかけください。

Los Angeles, CA (1)

トンネルを抜けるとそこはなんとやら、という感慨を抱いたのは実に久しぶりのことだったのだけれど、珍しく飛行機で窓際の席に座ったので外を眺めていたら、永劫のごとく続く砂漠の中を走る一本の道路が、やがて大きな街を作っていた。天使たちの街とはよく言ったもの、こんな広大な無の中に忽然と姿を表す街の姿はおよそ人間が作ったものとは思えないほどあまりにも唐突な存在感だったが、同時にどこにでも住んでやろう、どこまでも突き進んでやろうというあのmanifest destinyの強靭さに胸を打たれもして、飛行機の中、夢中で裸の山並みや砂漠にむかってシャッターを切っていたわたしは幼い子供のようだった。

東京に産まれ育って29年、身も心も都会に育まれたわたしはいわゆる自然というものには正直まったくなじみも思い入れもなかったのだが、アメリカの片田舎に住むようになってたった1年で立派な自然派のカントリーガールになったのだなと思うのはこういう瞬間で、わたしは結局のところ、アメリカというものの物理的な大きさと、その中に息づくほとんど馬鹿みたいといっても過言ではない強靭な精神にどうしようもなく恋をしているのかもしれない。

今回の旅は(それはもう今からひと月も前のことになる)日本に帰国する前にLAに住む友人を訪れるという目的だったわけなのだが、LAというのは字義通りにも隠喩的にもわたしのアメリカ生活と日本生活の中間地点に位置する街だった。そこはたしかにアメリカなのだけれど、同時に都市であるがゆえに東京を思わせ、またアジア人口の多さはLousianaがわたしに与えていた他者感を良くも悪くも軽快にぬぐい去る。ある意味ではわたしにとって東京に帰るためのリハビリに最適の土地だった。

リハビリの第一歩目は服装なのだった。Louisianaというか南部は前述のとおり、ドレスアップをすることが若い娘の唯一の楽しみのような場所なので、女達はチェーン展開のレストランにおいてさえ原色のワンピースに身を包み、10cmにもなる慣れないヒールを履いて一様によちよちと膝を出しながら夜を楽しむ。都会というのはそういう場所ではなかったのだ、と思い出したのは早くも空港でのことで、誰ひとり華美な服を着ているわけでもないのに妙に洗練されている。そうかこれがわたしがすっかり忘れていたおしゃれというものか、とひとりごちていたらとびきりの笑顔で声をかけてくれた、ジーンズをブーツインしたいい女がいて、それがわたしの最愛の友人だったのだった。まいったな、かわいいじゃんか、などと思いながら自分の小花柄の短いワンピース(とはいえもちろん下にはショートパンツは履いていたのだが)と彼女の都会風の装いの対象がいかにも田舎娘、都会に来る、という小物語を連想させたので照れ笑いをしつつ、一年ぶりの再会に快哉を叫び、わたしの一週間のLA生活が始まった。